セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

既得権×余裕ない人への「文脈なきナイフ」=「認めて欲しい」

最近、フェミニズムの文献を、kindleで楽しみながら少しずつ読むようになった。

世間もだが、自分自身も大なり小なり変わったのだと言える。

数年前の段階では、(当時は情報摂取がツイッターメインだったこともあるが)「細かすぎて、とても文脈を追えない」と感じていた現象や存在が、ある程度整理して総括的に振り返ったり、現在位置を確認しやすくなっている。

自分自身も、当時は時間・精神・カネ全体に余裕がなかったけれど、今なら積極的に知識や情報を取りにいこうという姿勢に変わっている。

 

まだ分量は全然読んでないが、フェミニズムにせよ、各マイノリティの主張にせよ、「なぜ受け止められ理解されるのが容易でないか」という「感度」は割と早い段階で想像できた。

簡単な話で、「当時の自分」を思い起こせばいいだけだからだ。

 

上に挙げた「文脈が細かい」に尽きると言えば身も蓋もないのだが、(便利なので、仮に「マジョリティ」という言葉を使っておくが)そもそも、「マジョリティ」の「世界の認識様式」や「議論の前提・方法」がまるで合わないのだ。

まず「個人」「個別」という前提が認識できない。

「マジョリティ」は、「文脈の理解」という、まどろっこしいことを嫌う。

まず「AかBか」といった単純な二分法や、(「問題認識」の前に)「具体的な対策論=方法論」を求めてしまう。

「じっと言い分にまず耳を傾ける」ような度量=知的な懐の深さや忍耐力を持つこと自体が、極めて難しい。

(一方で、論破・切り取り・(文脈を無視した、耳目に響きやすい)「整理」などは得意だ。それがマジョリティの「共感」をさらに増やす効果もある)

「じゃあどうする」という結論だけを求め、「じゃあお前は△△ね」というレッテルを貼って、一刻も早く自分の(知ってる範疇内の世界に色分けして)「安心」を確保したい。

 

ここでいう「マジョリティ」は、「既得権」と「余裕ない人」の2通りがあるが、両者は、独立した部分と、重なり合う部分とがある。

目的もふるまいも異なるが、明確に「野合」出来る瞬間がある。

「認めて欲しい=私たちの存在を知って欲しい」という訴えへの反応だ。

 

「既得権」も「余裕ない人」も、「文脈の理解」ができる余地がないことは共通している。

ただ、その反応の背景が微妙に異なるのだ。

「既得権」は、言うまでもなく、自分の存立根拠や(形なく)今貪っている既得権を脅かされてしまう惧れから。

「余裕ない人」は、まず「自分に何をしてくれるか」という人を求めている。

にも関わらず、「全く予期せざる、全く自分と異なり、理解も出来ない」要求をする存在が突如現れて、なおかつそれが「自分たちの主張」より社会的に優位に取り上げられる(ように見える)「不快な驚き・反発」が生じる。

背景は違うが、「ナイフを突きつけられた」感覚の共有という点で、「野合」が可能なのだ。

 

なぜそんな分析が出来るかと言えば、まさにその「当事者」だ(った)からだ。

無論、フェミニズムや「マイノリティ」の、自己の生存や人権に関わるからこその訴えだ、というのも「今ならば理解出来る」。

 

「マジョリティ」の「余裕の無さ」と、「マイノリティ」の「余裕の無さ」をきちんと比較し吟味して判断できるのは、当事者=「マイノリティ」以外では、実は(「既得権」と必ずしも重なり合わない)「余裕のある」人=「冷静な観察者」だけなのだ。

だからこそ、フェミニズムについて、軽くでも知見を得られた意味と効果があった。

 

また、フェミニズムの知見に「共感」出来たのは、「理論」というより、

フェミニズムの学者たちも、学校や研究・政策現場で苦闘していて必ずしも余裕がある訳ではない。

第三波・第四波(フェミニズム)の複雑な潮流と、旧態依然の差別状況・若干の女性進出や主張の通る環境・世代やメディア環境変遷・厳しい経済競争環境の中で、学生指導にせよ他派フェミニズムとの連携にせよ、皆充分な余裕と目配りのもとで闘っているのではないのだ」

という「実感」のほうだったのだ。

フェミニズムを唱える学者たちが、高踏的な「上から」目線だったら、結局受け入れる余地はなかったろう。(それがもしかしたら、90年代までのフェミニズムだったのかもしれない)

 

と言っても、自分自身は、フェミニズムと同じ目的を持ったり、追いかけようとはしていない。

今後プロセスにおいては、部分的に重なり合うところも、しばしば出てはくるだろうが。

しかし、いずれ「深いところで理解し合える友人どうし」のような関係を結べるのが理想、あるいは目標だ。

(次稿に続く)