セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「好きじゃない人と無理に一緒」なら、お仕着せの見合いでも変わらない?

SNSで読んでて驚くのは、「好きになれないけど、(大人の都合上)我慢して付き合う・結婚生活を続ける」勢の意外な多さだ。

こちらは、そのゲームをしない完全な局外者の視点でしかなく、幼稚な視点でしかないのかもしれないが。

無論、「幸せな恋愛や結婚生活」を送っている人は多かろう。それでも、「相手の欠点も含め、あるいは多少なら目をつぶって愛して、生活を続ける」というのは、割と一般的な様式だと想像できる。

 

しかし、上の事例では、「相手や生活に、どうしても我慢できない部分があっても、(もう他の相手を見つける大変さか、生活維持という事情ゆえか)付き合い・結婚生活を続ける」という人・カップルも少なからず見受けられることだ。「仮面カップル・仮面夫婦」と言っても良かろう。(「真っ当な幸せな」カップルと、「仮面カップル」の比率みたいなものも知りたいものだ)

色々な事情があるのは想像できるが、「不幸だ」とわかった上でその生活を続ける・続けないといけないことは非常に苦しい筈だ。

 

ただ思うのは、「結果=仮面カップル・仮面夫婦」になるなら、入り口が「自由恋愛」でも、「お仕着せのお見合い」でも変わらなくね?ということなのだ。

無論、きっかけは、自分たちに生まれた恋愛感情とか、出会いのきっかけ・共通の思い出みたいな「ストーリー」はあるかもしれない。

が、「それだけじゃないの?」とも思う。

特に、「夫婦」や「結婚」は、ロマンスじゃなく「生活」だ。もし上手くいかない場合、そうした「ストーリー」は「今となっては無意味な過去」に転落していくのだ。

大事なのは、「これから先も、長く生活を共にできる同志」であり得るかどうかで、一緒に生活し続けるからこそ「愛(せること)」は要る、という順序ではないかと考える。

 

「ロマンティックな出会い〜結婚」と「結婚後の生活」とは別々のものだ。これ自体は、割と皆頭では理解している。

ただ、「人生の時間(=とどのつまりは社会全体の時間)」では、「結婚後の生活」の比重が遥かに大きい部分を占めている。

しかし、にも関わらず、社会において前半部分の「恋愛」というイデオロギーやその幻想が振り撒かれ過ぎていないか、ということなのだ。

 

言いたいのは、「お仕着せのお見合い」を増やせとか受け入れろ、ということではない。

大切なのは、「恋愛」への幻想よりは、男女ともに、「誰が相手に来ても、ある程度は生活を続けられる生活能力」を備えることで、そうした方向に社会を振り向けていくべきではないのか。

 

日本では、「イエ」という制度と「見合い」とが結びつけられ、「イエ」制度批判に合わせ、「見合い」も廃れていった。

そこまでは良い。

ただ、「恋愛」イデオロギーの肥大化とともに、男女ともに「自我」「私」だけが膨張するミーイズムが異常に大きくなり、「じゃあ各自、新たに『家族』というグループを作って、運営して下さい」というスキルやスペックとして何が必要なのかということの比重が、疎かになったのではないか。

 

「相手が誰か、それが運命の相手か」

ということより、互いが「相手が誰でも、力を出し合って、生活を一緒に維持する」こと、そのバランスが、結婚生活では何より大事と考える。

どちらかの「我」が不自然に強すぎると、生活が簡単に瓦解し得ることは容易に想像できる。

 

「誰が相手に来ても、ある程度は生活を続けられる生活能力」が備わる社会作りというのは、堅実かもしれないが、「恋愛」というイデオロギーや幻想に比べて面白みには欠ける。

また日本のようなジェンダー不平等の社会では、課題ばかりが指摘され、「既得権たる男性・男社会」にとり、何より不都合なのだろう。

 

そうすると、実は、「恋愛」イデオロギーというのは、「自由」に見えるのは見せかけだけで、実際には「他の社会課題を覆い隠し、注意を逸らす」機能を果たす、「既得権、または現在の社会制度」と事実上の共犯関係にあるという、恐ろしい事実に気づくのである。

「恋愛」に注意を逸らされているのは、「リア充」なのではない。実際には、それで、他の認識すべき社会の実態を隠されたり、逸らされているに過ぎない。実際、それで「幸せになれる」と各種ファンタジーで煽られているのだから、そこに向かわざるを得ない。

実は、「恋愛イデオロギー」というのは、現代日本における「パンとサーカス」的大衆制御施策の一つなのだ。

そうでないと、こう無闇に恋愛コミック・ドラマ・映画ばかりが作られて消費される現象の説明がつかない。「恋愛イデオロギー」だけで思考を支配し、停止させる狙いがあると見るべきなのだ。

 

話が逸れた。

前にも書いたが、「恋愛」には「無理ゲー」の側面がある。

誰でも勝てるようにはなってないし、皆時間・カネ・エネルギーを浪費するつくりになっている。

そして、さらに「結婚」は「恋愛」とは距離があるだけでなく、現代の日本社会では、「結婚」が中途半端な社会的位置付けになっている(ように見える)

「イエ」という制度自体の破壊も、ジェンダー不平等の解決も出来ないまま、経済的な将来不安を抱える人々を、「旧時代の遺物」たる「結婚」に(「安心・安定」があるかのように)煽っている。

 

ポイントは、現代では、「恋愛」も「結婚」も、「自己責任」にされてしまうことだ。

うまくいかない・出来ない人は「自己責任」。恋愛も結婚も、できない人は「自己責任」。

また、同調圧力の強い日本社会では、「恋愛」「結婚」にハマらない人も居場所を見つけづらい。

 

SNS上で吐き出される泥というのは、こうした「無理ゲー」構造に、知らずに引っかかって苦しむ人々の叫びに見えてくる。

「恋愛」イデオロギーが社会の強力な仕掛けだと気付いても、個人レベルでは対抗のしようは殆どないし、全てを否定できる訳でもない。

「気づかない方が幸せ」かもしれないし。

「恋愛」というのは「大きな物語」に過ぎなかったのだ、と、日本社会の大勢が気づいた時、たぶん社会全体が大きく前進できるだろう(もうその時にはとっくに手遅れかもしれないが。笑)