セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

(カネ+)健康+人間関係維持がないと「家族はリスクヘッジにならない」件。

同僚どうしの姑愚痴は、毎日のようになされているのに止まるところを知らない。

愚痴というよりは既に、「旦那が死んだら縁を切ろう」「早く施設に入居してくれないかな」etc.極めてリアル、かつ筋道だった見通し込みの情報共有と見るべきかもしれない。

老人が時代や社会の変動に合わせられず、家族からすら孤立していく厳しい環境が看取される。

伝統的儒教規範みたいなものが破壊されたのは大変結構だとして、そうなると、むしろ老人のほうに、「物理的インフラ(老後財産+身体精神面の健康)」と「健全な人間関係の維持(家族や友人・地域)」という高いスペックが要求されていく。

「終活」という概念が拡がった一方で、適切な「実践」まで踏み込むことが出来ている人々は一部に過ぎない。物理的精神的に豊かな老後を送るには、猛烈かつ意識的な下準備が必要な時代なのだ。

 

以前、「結婚したくない積極的な8つの理由」という記事を書いたことがある。

「結婚」という行為に懐疑的な理由は複数あるが、婚活に駆り立てられる有力理由として挙げられる「リスクヘッジとしての結婚」という考え方に、大きな疑問符がついていることもその一つだ。

日本の婚活者が、そのように考えて婚活するのはある程度仕方ない面もあるのだが、「日本の社会システムの構造的欠陥」という認識が希薄であることもまた、大きな問題と捉えている。

 

「結婚とか家族が、自身の老後のリスクヘッジになる」という考え方は、正直、あまりに安直にすぎる。

「『老後のリスクヘッジ』に伴い、支払われる・あるいは支払い続けなくてはならないコストの大きさ」が、殆どイメージされていない。それとも、「ともかく年齢が行く前に妊娠・出産をしなくては」「ともかく結婚して早く両親を安心させなくては」という、目前に迫った焦りの解決で、それどころではないのかもしれないが。

 

老後財産にせよ、生活習慣病認知症対策にせよ、この10,20~数年ほどでもある程度社会的な認識が深まってきた面はある。

その一方で、老後にわたる「家族関係の維持」と、「自らの老後の生活」との連続性を、適切にイメージ出来ているのだろうか。

(そもそも、結婚して新たな家族をもうけない限りは、そのような悩みとは無縁な訳だが)

 

「何かあった時(病気や老化に伴う入院入所等)、家族さえいれば安心だ」という状況を手に入れられるのは、当然ながら、その「家族関係が維持」されていることが大前提となる。

が、実際には、その維持の困難さのイメージが極めて希薄である。

関係悪化だけでなく、家族としてある程度連絡を取り合っていても、遠隔になると臨機応変に動くことも当然できない。

 

子どもがいても、遠隔だとろくに連絡できないし、夫婦で生活しても両方認知症にかかってしまうこともあれば、片方施設入所で事実上永遠の別れとなる(残されたほうは独居老人となる)こともある。(入院・施設入居に伴うコストや、施設の生活実態などはここでは触れないでおこう)

そうした高齢者たちの過酷な現状は既に「可視化」されているにも関わらず、「結婚して家族が持てれば安心だ」などという「信仰」が平然とまかり通ってしまっている。(それは、日本社会の「伝統的呪縛」である面もあるし、厳しい経済社会情勢が駆り立てる焦りという面もある)

 

「婚活」ビジネスというのは、上記の「日本社会の欠陥に伴って構造的にもたらされる、妙齢の男女が必ず駆り立てられる焦り」に照準を定めたものということができるだろう。

「老後にも自由に暮らせるだけの財産は残せる」、「身体・精神両面において、きちんと健康な生活を維持できる」、「配偶者は無論、子・孫ともきちんと円滑な関係を維持できる」、自身の求める「安心」が実現されるためには、最低でもこの3大条件が前提になることを、婚活者には是非認識して欲しいものだ。