歴史はかなり好きだが、近代日本政治史を通史で読もうとして、結構辟易した覚えがある。
当時はきちんと気付けた訳ではないが、絶えずジイさんばかりが入れ替わり立ち替わり出てくるだけの代わり映えのない(ホモソーシャルな)歴史に、ウンザリしたというのが正体だと今ならわかる。
さいとう・たかを「大宰相」(戸川猪佐武原作)をようやく読了。
これも長いこと読めなかったが、「ジジイの歴史=プロレスの歴史」の視点に気づいたら、スラスラ読めた(「ヤクザ(=親分・子分支配)の歴史」と書こうとしてやめたが、どっちでも同じだ。笑)
ジイさんたちの「プロレス」も、「怨念」と「執念」のねじり合う連続(しかない)だが、見方がわかると楽しめるようになる。⭐︎
退屈と言えば言えるが、たまに「知性」や「良識」のきらめきを感じ、日本の「民主主義」の、「ジイさん民主主義としての成り立ち」を実感することはできる。笑
個人的には、「政治」って色んな角度から楽しめる、あらゆる人に開かれた「(当事者としての)大衆エンタメ」だと考えているし、またそうでなくてはならないと思っている。
けれど、「ジイさんたちの独占・寡占的支配」が長すぎて、そんな想像力が湧かない人が殆どだし、楽しむどころか、「日常」での差別や暴力への抵抗で疲れて余裕がないか、諦めてしまうのは道理で自然な流れだ。
(未だに、「政治は政治家がやるもの。素人が口を出すな。出すなら政治家になるか、投票行動だけすべき」という、極めて狭い「政治=職業政治・投票政治」観が、日本の大衆では結構な比率を占めているように感じる。しかも、その見方で「損している」事実に気づいてない)
そして、今の「日本社会」も「日本政治」も、当然その成り立ちのもとにある。
「代わりになるもの(代替案)」を出せ、には応えなくてはならない。
しかし、「変わらない(できた)もの」が強固過ぎるし、その流れ(伝統?慣習?)を「尊重」し過ぎる。
「担い手がジイさんたちしかいない」では、「代替案」を出しても受け皿がない。(これは政治・企業・メディア現場全てに対して言える)
今は、構図は明解ではないが、新たな「プロレス」の段階に入っているのだと感じる。
本当は、GHQみたいな強固な外部権力が現れて、「有無を言わさぬパージ」みたいな方が手っ取り早いだろう。
だが、民主主義の社会では、決められた「手続き」に則り進めねばならない。
そうである以上、言わばジャンヌ・ダルクのような(英雄的)個人・集団の「群生」化か、社会の(「見方」を)変えるコンテンツを連続的に出し続けることか、しか今のところ有力な手立てはない。
状況はラクではない
⭐︎余談だが、井沢元彦の「怨霊」史観は、その後の日本の歴史家たちに影響を与えたと見ている。
「怨霊」史観、「怨霊」の歴史も、「プロレス」として読み解くと理解しやすいのではないかと見る。
「民主主義」も「文学」も保証されてなかった時、「敗者」や「(非業の)死者」をどう掬いとるのか、への当時唯一の処方箋が、「怨霊(を祀る)」しかなかったのだと考えている