先日の長電話では、盲点を突かれる視点やトピックがいくつか出た。
非モテ(ではなく正確には「高齢DT」(差別用語なのかは未確認)が主要トピックなのだが。カミングアウトした著名な学者と、共通の古い知り合いが念頭にあった)は「ノーチャン」なのか、が彼の問いかけだった
「今は単に『逢って、ヤル』という観点だけに即して言えば、ネットのおかげで、昔より遥かに簡単な社会環境になった。セックスにありつけないまま、ずっと来てしまわざるを得ない人がいるのは気の毒?だ」と言った。
すると彼は、「(非モテの人は)例えば、学校・職場なりで、異性と一緒になり、話したりする機会(本来なら『ワンチャン』)があっても『ノーチャン』なのかね?」と問うてきた。
「『モテ』の気配(例えば、異性のほうから近づいてくるetc.)があったとしても、自分に既にその気があって、アンテナを巡らしていないと(自らがフェロモンを発していることにも)気づけないし、処し方を知らないと、チャンスをモノにすることができない」
「非モテのままでくると、『好意を向けてくる人』を待ってしまうが、そんな人はそもそも現れない。「攻め」の姿勢がないと、機会はそもそもないのだが、その姿勢にダメ出ししてくれる人も現れないため、それに気づくことが出来ないまま、歳を重ねてしまう」
「そうすると、『異性との接し方』がわからないまま大人になった人が、まんま婚活市場に雪崩れ込んできて、基本的なコミュニケーションの取り方も分からないまま右往左往するカオスが出現する」
「高齢D〇のままで来てしまった人は、精神的余裕が持てないのではないか」という趣旨からこの会話が生まれた(上で挙げた学者は、ネット上での批判に、あまり見ないようなヒステリックな反応をしているのを観察していたため、例の「穿った見方」で、深層的背景には「高齢D〇」であることがありはしないかと捉えたわけだ)
偏見かもしれないが、ドルヲタなどを見ていても、「D〇」は、目尻や口もとに何となく締まりがなく、顔つきに現れるのではないかという気がしている(それこそ今はディープラーニングで画像認識にかければ、精度良く割り出せはしないだろうか)
「非モテの問題は、個人が自分自身で何とかして下さい」というのが、今の社会の建付けになっている。
たまにTwitterなどを見ると、そうした社会システムへの怨嗟が渦巻いている感触を持つ。note上でも結構見かける
「自由な恋愛市場」というのは、「近代的な市民社会」と表裏一体のものだ。
今の社会は、そこで生まれる「格差」を更に極大化させているように見える。
前近代的な「家」というシステムは、個人に不当な負担や差別を強いてきたし、今なおその遺制は強固に残存している。
しかしそれを背景にした「お見合い」のシステムのほうが、社会を効率的に回していた側面もあったろう。
「婚活」というのは、純粋に「個人の力」のみに負担を集中させるが、それがむしろ、「非効率=ムダ(個人の時間・カネ・エネルギー)」を生じさせている気もしてならない。それこそが、「婚活市場」の「エサ」になっているわけだが。
「家」という前近代的なシステムを、逆説的に肯定したい訳ではない。
現代の「婚活」とか「婚活市場」の構造には欠陥があること、特に、その中で「非モテは、最終的に回収され得ない無理ゲー」の構造も孕んでいることを指摘したい、ということなのだ。