セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

所詮、「親はサイフ」で、「親ガチャ」か。

「所詮、親なんて単なるサイフですよ」は、ホリエモンの、確かtube上の発言で、印象に残っている。

 

「確かに。当然だ」と思う一方で、片方で割り切れない自分自身もいる。

これが、「親ガチャ」にいら立つ親の気持ち(の一部)か、と初めて知った。

 

筆者は、人の子の親ではないので、「親」たる当事者からすれば、「貴様に何が分かる。その程度の話で一緒にするな」と思われるだろう。

といっても、別段「人の子の親」の同情や共感を得たいという目的で書くわけでは全くないから、構わないのだけど。

 

筆者の漠然と割り切れない思いは、最近親類にプレゼントを渡そうとするときの「反応」に対してそのように感じるのである。

祝い事等があって、何かプレゼントしようかと提案した時に、ここぞとばかりに高額な、こちらもその存在を知るどころか聞いたこともないような商品を希望されたときに、「こりゃ単なる財布扱いされてるな」と特に感じるようになった。

そこには、自分の存在や人格というより、「カネ」と「代わりに購入」という行為だけしか要求されてないことに、割り切れなさを抱くのである。※

 

「子どもに小遣いをあげる」だけなら別にいい。

(むしろ、たまの機会だからこちらも嬉しさがある)

親類の「大人」に対して、特にそう感じるのだ。

子育てにはなにかとカネがかかり、ちょっとした高い買い物も思いのままにならないということもよくわかる。

 

 

というよりはむしろ、本来なら「積極的に支援」する立場に(自分が)なるべきなのに、なってないことを自責すべきポイントなのかもしれない。

ただ、そうなると、結局は「果てしないセレブになるべき」=「勝ち組」論にしか帰結はない。

それだけ「与えることによって、幸せにできる」立場になれば、より自分自身の幸福感も増すには違いないが。

 

そこで、「親ガチャ」論に帰着する。

ただ、「親ガチャ」論への苛立ちは、所詮自力で「セレブ」にはなれない「凡庸中間層」の苛立ちに過ぎないだろう、という冷徹な見方もしている。

自らがセレブなら当然、思う存分親自身も自由で、子どもにも自由な教育の選択肢も与えられるし、必要なものを買い与えられもするだろう。

でも、「それって限られた人だけが可能なことでしょ、何で皆がそれになる(ことを目指す)必要があるの?そんな社会のほうがおかしいんじゃないの?」というのが、どうしても引っ掛かるところなのだ。

 

たぶん、世の「親ガチャ」に苛立つ親の力点は違うだろうし、実は筆者はそこに興味はさほどない。

いや、というより筆者は、「親ガチャ」という言葉に対する親自身の苛立ちは、本来「社会構造」に向けねばならないところを、直接発する「子ども」や「子ども世代」に向けてしまう親たちの視野狭窄を問題にしたいのだ。

 

なぜ「親ガチャ」という言葉で、親子対立・世代分断が為されるに至るのか。

その根因追究をすることなく、その言葉とか、それを発する子ども自身を攻撃したり、あまつさえ、「子ガチャ」などという言葉をでっちあげて更にその対立を煽るという不毛な愚行を重ねてしまうのである。

だが、そうした視野狭窄に安易に陥ってしまうほどに、今の「普通の子育て世代」というのは、追い込まれてしまっているのだと思う。

 

 

時折しも、ちょうどテレビの討論番組で、「少子化担当大臣」が、「少子化」という現象をどのように捉えているのかを口にしているのを目の当たりにし、ますます絶望感と、(結婚も子育ても選択してない)自分自身の判断に自信を深めることになった。

曰く、「少子化になると、将来の消費市場が縮小する」「労働力がますます不足する」と。

要は、「子ども」は、将来の「カネ」とか「労働力」としてしか見えてない訳だ。

 

世の親って、「消費者」とか「労働者」を生むために出産・子育てしないといけないわけ?

兵隊にとるために「産めよ増やせよ」がスローガンにされていた戦前とどう違うというのか。そこで「はなから命を取られる」目的になってないだけマシだというのだろうか。

 

まあ、建前とか綺麗ごとでなく、政治とか政治家のホンネを剥き出しにしてもらったほうが、こっちとしては判断を下しやすいとも言えるのだけど。

今は、「お国のため」にわざわざ出産・子育てをする親も若者も、確実に少ないだろう、ということは確信を持って言える。

 

政策的には、「少子化対策」というのは、単なるお題目に過ぎず、本当は一切やりたくないことだけれど、建前上「何もしない」ことが許されないから、上辺だけ仕方なくやってるフリだけしておくしかない、という実態を、鮮やかに受け止められた瞬間だった。

「子ども」も「教育」も、「本当は」大勢は望んでない「お荷物」でしかない。

それが「政治の偽らざるホンネ」なのである。

 

正直、筆者自身は、世の「親」が「親であること」自体への「リスペクト」はあまりない。

ただ、(日本では特に排除されがちな)「チャレンジャー」「冒険者」であるとは思うし、そのことはすごいなと思うことはある。

 

日本は間違いなく、「親になる」「親である」ことは、「マイナーな趣味」に転落していくだろう。

比率はそれよりはマシだろうが、「結婚」も恐らく同様である。

 

そして、そのことに対して、責任どころか、実は「問題意識」すら殆どが感じていない。

それが「日本社会」の実情なのである。

 

※書きながら、本文の本旨とも重なる、重要なことに気づいた。

「その子供たち、または家族皆で愉しむために遣いたい」というのと、その使途が「専ら親の欲のためにそれが流用されてしまう」ことに、疑問や違和感、あるいは不快感を抱くのだと気づいた。

それらは全然別のものだが、その目的を曖昧なままプレゼントの希望を募ってしまう、筆者の伝達力不足または目的明確化不足に、大きな原因があったのである。

 

これは、昔から政策でバラマキに使われる「地域振興券」に対しても、同様のことを感じていた。

「子育て世帯に」配られる、という名目で、(「子ども個人」には絶対に配布されることなく)「世帯に」配布されるのを良いことに、親が一方的に搾取し消費してしまうという構図のことだ。

 

ニーズの捕捉不足=コミュニケーションや接点不足ということも無論あるのだが、(自身が結婚や子育てをしてないせいも大きいと思うが)「子どもたちのため」か「家族全体」か、はたまた「親たちのため」なのかを区分できてないと、このような事態が頻発してしまうのだと結論づけることができる。