セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

フェミニズム・男性学に対して「中立」

当ブログのIDは、femidanとしている。

「フェミ男」すなわち、「フェミニズム男性学」から取ったものだ。

当然ながら、それらの知見への興味から取ったものに他ならない。

 

その一方で、では、「フェミニズム男性学に対して、どのようなスタンスを取りたいのか?」は、長く判断できていなかった。

が、「対フェミ・男性学中立」というスタンスに、ようやく落ち着いた。あるいは見極めがついた。

 

それらの知見への興味というのは、やはり、「日本社会、あるいは日本社会の変革に必要ではないのか?」「自分個人にとっても必要ではないのか?」という視点や直感から来たものだ。

本自体は、まだ少ししか読んでない。

それでも、大きな刺激と知的関心を得たし、だからこそ、こうしたブログも立ち上げたのだが。

 

といって、「自分自身として、フェミニストになりたい・なるべきか、男性学を探求したいのか?」となると、疑念が湧いてくる。

知見には共感もし、それが示唆する社会変革に関与したいとも思う一方で、フェミニズム男性学やその運動・研究者に対しては、疑問や反感を感じるのも事実だからだ。

そして、それは、必ずしも「非合理な感情的な反発」ではなく、「明確な理由」があるということもある。

(とはいえ、自分がやりたいことを探究したら、それは「男性学」の先駆的な取り組みということにもなる可能性もあると思っているが)

 

日本社会には、もっとフェミニズム男性学の知見や運動が浸透すべきだ、との思いが強い一方で、「やり方や伝え方をミスってきたよな」と思うこともある。

また、根本的な学問的方法論の話をすれば、文学的な批評的な方法論の非科学的な性質にどうしても馴染めない、ということもある。

(細かい話をすると、他の社会学分野と、フェミニズムの位置関係・政治関係が今一つ分かりにくかったということもある。最近はだんだんその区別がつくようになった、ということだ)

 

だから、フェミニズム男性学に対しては、あくまで「中立」の姿勢である。

共感したり、提案やアイデア・知見を取り込むこともあれば、批判的摂取、または方法論や姿勢・取組そのものを批判することもある。

 

随って、当ブログでの、フェミニズム男性学に関する知見や情報の発信も、筆者のそうした姿勢を反映したものとなる。

もっとも、筆者自身も、現時点で、方法論を確定させているとは言い難い。

筆者は社会学者ではないし、社会学的研究を行おうというのでもない。

ただ、取り組みたいこと(社会的・政治的)はあり、そこには、社会学的基盤や、思想的基盤をある程度固める必要があろう、とは考えている。

 

また、フェミニズム男性学は、根本的に重要かつ必要ではあるものの、筆者の政治的・社会的関心の一部に過ぎない(「テーマの中核か?」と言われると、現時点では「分からない」と回答せざるを得ない)

フェミニズム男性学に対して「中立」的姿勢を取ろうとするのは、既存のそれら分野に対する考え方というのもあるのだが、「日本社会を変えていくうえで、政治的・社会的に必要かつ有効な取り組みや、発信のあり方」というものに問題意識を持っているからだ。

 

既存のフェミニズム男性学は、それとして必要な研究や発信・提言を行っている。

が、「正論」ばかり伝えようとする方法には、限界や課題を感じざるを得ない。

正しいし、必要であること、また当事者にとっては、生命や人権にかかわる訴えであることは分かっている。

だが、「正論だからって、その訴え方が有効=社会に刺さるわけ?」というのを、常に感じてきた。

「説教」されても、面白くも楽しくもないし、かえって耳をふさいだり、反感を招くだけだ。「メリットがない」と思われても仕方ない。

 

だから、知見や提案に共感したとしても、「訴え方」や「取組み」そのものには必ずしも賛同しない。

生活そのもので、そうしたスタンスや運動そのものを一貫させようということでもない。

フェミニズム男性学に対する興味関心は、自分の政治・社会的関心のあくまで一部に過ぎない。

そうした「個人のライフスタイル面での姿勢」としても「中立」である。

 

なおかつ、傲慢に聞こえるかもしれないが、思想的・実践的に、「フェミニズム男性学よりも、深く社会や思想に切り込めるのでは?」とも思っている。

だから、別に、フェミニズム男性学に共鳴したとしても、その「思想のイヌ」になろうというのでも全くない。

その点でも「中立」。

 

ただ、深めるに当たっては、フェミニズム男性学に対する、このようなスタンスの見極めに、非常に長い時間がかかった。

このスタンスが決まらないと、何を摂取しても全く実にならないから、先へと進みようがない。

長い時間をかけて、ようやくスタート地点に立った、ということなのだ。