セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

初めて感心した「夫婦別姓」体験実証チャレンジャー

先日、「国際女性デー」に合わせて、「選択的夫婦別姓」を求める集団提訴が行われたとの報道があった。

 

選択的夫婦別姓を求めて 長野県など男女12人が集団提訴 姓を変えるとキャリアが維持しにくい…【長野】(テレビ信州) - Yahoo!ニュース

 

夫婦別姓を求めて5回の“ペーパー離婚”を経験 両親の「別姓」を体験した息子は「名字が変わって家族が壊れるイメージ湧かない」(TBS NEWS DIG Powered by JNN) - Yahoo!ニュース

 

その中で目を引いたのが、「いったん結婚後、夫婦別姓をめぐって離婚し、今は事実婚状態にある」というカップルで、特に彼らは、「社会保険のシステムの都合上、夫婦別姓はできないのだと言われた」と確認した、というのだ。

また、必要に応じて、ペーパー離婚を5回も繰り返した、というカップルについての報告もあった。

要は「結婚・離婚」も「戸籍」も、倫理的な意味合いを込めず、単なる「道具」としてそっけなく扱っているのだ。

こうした「夫婦別姓」の「体験実証」型チャレンジャーの存在には、初めて感心したのであった。

 

自分は、「夫婦別姓」自体は結構なことだと思っているが、別に「賛成」論者というわけではない。また「反対」の立場というわけでもない。

じゃあどっちなの?と聞かれるかもしれない。

「イエ(家・家族)」や「戸籍」、日本の税制など、トータルな観点での関心はあって、「夫婦別姓」というのは、あくまでそうした問題関心の一つに過ぎない、という位置づけであり、その課題に敢えてクローズアップして特段の重きは置かない立場、と言っていい。

実際問題、現時点で「当事者性」がないから追ってない、というのも否めないが。

 

では、「初めて感心した」とはどういうことか?

自分が、世で目にする(特に女性が多い印象があるが)「夫婦別姓」の主張(?)には、「感情論」がとても強いと感じているからだ。

 

「なんで結婚する時に、特にもっぱら女性側が姓を変えなきゃいけないの?」

の「疑問・反発」で文字通り「停止」しているのである。

「なぜそうなのか?」を制度的・歴史的・政治的に十分掘り下げもしなければ、どうすれば実現できるかという方策の考案も、それに対する行動も、あまりにも不足している。

 

「疑問・反発」は、あくまで「出発点」としては妥当であり、また当然だと思う。

けど、それだけで終始してない?という個人・カップルが非常に多い、というのが個人的な印象だった訳だ。

 

自分の「夫婦別姓」論者・議論の印象としては、上述「感情的議論」に終始しており、

・「夫婦別姓」論の意図する狙い

・それで実現される社会像

・「運動」における戦術と、その立ち位置

・理論的前提の確かめ・基盤

・歴史・政治・社会状況の認識

がチグハグだ、との印象を持っている。

だからこそ、積極的に「賛成」し、心情としても「応援」しようという気にはならない。

 

しかし一方で、経団連も「選択的夫婦別姓」に賛成するなど、次第に環境は整いつつある。

経団連会長、選択的夫婦別姓の導入求める 実現向け政府に働きかけへ:朝日新聞デジタル

なおかつ、非婚化が急速に拡大する社会の中では、多様な結婚のあり様を認めていくこと自体が「結婚(という制度・営み)へのニーズ」として求められている状況とも言えるだろう。

 

自分が「夫婦別姓論議推進において確認すべきと考えるポイントは、主に以下である。

・各業界システム面の「社会実装」が可能な条件は整っているのか、その確認

・推進する政治・社会的な戦術と戦略の選択

・政治的・歴史的な認識を、社会の中ですり合わせること

 

自分が疑問視しているのは、「選択的夫婦別姓」が、単に「当事者運動」のような形の訴訟運動として行われている点だ。

これは単なる「ゲリラ戦術」にしか、自分には映らない。

あるいは、現状はまだ社会的気運も盛り上がっていなければ、社会啓発も進んでいない以上、まずは「少数でも、声を挙げ続けること」に狙いを定めているのかもしれないが。

 

なぜ疑問視しているかというと、自分は、「夫婦別姓」のチャレンジというのは、(「夫婦別姓」論者が主張しようとする、単なる「家族問題」に留まらない)日本の戸籍面・税制面の革命的変革を内包したものだと考えているからだ。

そうであるし、またマイナンバー制度は、基本的には、そちら方面(=「個人単位に課税できるシステム」)へと舵切りしたものと捉えてよい。

その面でも、制度面・社会実装面での基盤は、確実に熟しつつある。

しかし、どこまでも「個人と家族の問題」に内閉しようとする「夫婦別姓」論者には、そうした歴史的・政治的射程があるようには見受けられない。

これには、バックアップするメディアや学者の側の問題も、非常に大きいと考えている。

 

だからこそ、今回、夫婦別姓「体験実証」型の夫婦には、初めて感心したのだ。

実際にやってみて、社会課題を認識し、また実験結果を周知もする。

彼らは「一歩を踏み出した」と言える。

 

自分は疑問を呈したが、「夫婦別姓」論者が「当事者運動」に留まるのも無理ない面もある。

結婚時に姓を変えるのは、変更時点では社会的コストが大きい一方で、いったん変えてしまった後は、バリキャリでなければさほどの負担や違和感もない、という夫婦がむしろ「多数派」になってしまう現実もあるからだ。

そして、上でも触れたが、現代では、「結婚」できること・そのカップル自体が、既に「特権(階級)」化してもいる。

 

夫婦別姓の体験実証」というのは、当面の実践的戦術としては、割と有効なのではないかと感じた。今後は、戦略的に、その「縦の深化と横の拡張」が求められるだろう。即ち、

・「体験実証」のカップルを、「政治家」として、国会以外に、地方議会などでも増やすこと。

  同じく、(芸能界自体は芸名の世界なので)そうした実践を行っている「ビジネスタレントのカップル」をテレビに出させて啓発を行う。

  また、そうしたインフルエンサーに、同様の啓発をSNS上でも行ってもらう。

・制度とシステムの側の、「社会実装」への「呼応者」を増やすこと。

 現状での課題と、どうすれば実現できるか、実現した先の像を可視化してもらうこと

である。

 

夫婦別姓」推進論者や、メディアの政治的・社会的スタンスも見直すべき点があると考える。

夫婦別姓」を「個人と家族の問題」に内閉させようとするのは、要は「利己主義」でしかないんじゃ?と受け止められる。

そうでなく、日本の歴史と、政治社会制度まで深く掘り下げた上で、「こうした変革が、日本のためにどうしても必要なのだ」というビジョンの訴えも必要ではないのか。

「当事者運動=マイノリティの運動」に終始する限りは、マイノリティを占める、岩盤保守的な自民党的心象に、実勢として勝てるはずがない。

女衒ZEGEN(1987)

今村昌平監督、緒形拳主演作。傍らに倍賞美津子を配する豪華なラインナップとなっている。

(下記、一部ネタバレ注意)

 

明治期にアジアを股にかけた「女衒」(遊女手配師)、村岡伊平治の生涯を描く。

 

昭和基準までで言えば九州島原生れの「快男児」の歩みを見るといった趣きになるだろうが、「現代の視点で」様々な史的な文脈が駆け巡った。

・近代日本の女性の経済・社会・政治・教育的地位の低さと差別

 (女郎たちの扱いに、明治初期「マリア・ルーズ号事件」の「牛馬切ほどき」という言葉を思い出した)

・食い詰め不法渡航だった女性たちの負い目と、「身体を売って外貨を稼ぎ、家族に仕送りをせよ」と唱えた村岡の「大義

・明治期の海外進出の中で、「娼館(女郎屋)」は言わば「ニーズ」として捉えられ、その中で村岡の活動余地が生まれたことと、「国立娼館」を目指した村岡

・前科者を雇って結成した誘拐団による日本内地の女さらい

・大正期「廃娼運動」は、海外日本居留地にも及んでいたこと

・「大帝(明治天皇)の御真影」を掲げて遥拝し、「天皇陛下の赤子を増やす」といって実際に多産であったこと(「女は子供を産む機械」という某大臣の発言を想起した)

etc.

 

自分自身でも意外だったのが、「慰安婦」問題に、初めて「歴史的な」興味が湧いたことだ。

この作品は直接関係するところではないが、間違いなく地続きの問題として存在する。

自分の「慰安婦」問題への関心は、言わば外縁的な、内外に与えた「政治問題」として捉える視角に留まっていたが、初めて「歴史的な文脈」の契機を得た。

 

あまり視点を拡張するのは本作の感想や視点からズレるかもだが、自分には完全に歴史的に一本線に連なる問題に見えたのだ。

・「近代海外進出(植民地支配含む)×女性差別」は深く連関していたこと。

 そしてその差別・支配構造は、近世以来の日本社会・文化に深く根差していたこと。

 その一方で、「社会の近代化」の文脈の中に「廃娼運動」も位置していたこと。

・「天皇陛下の赤子」という概念が、近代日本の実体的規範として作用していたこと。

・昭和恐慌期まで及んでいた「身売り」

 (そして令和の今になって、ホストの「掛け(売掛)」の負債から女性を「風俗堕ち」させる手口が「社会問題」として取り上げられるに至っている) 

 

慰安婦」問題そのものは、既に(内外に対する「政治問題」としての)「型」は見えている。

しかし、「歴史問題」として終わってないと感じるのは、上述の通り、日本国内の「今の」差別や社会問題が終わってないからだ。

こうした分析については、今後の課題として積み残しておきたい。

 

「女性史」をやる難さとキツさ

自分は、歴史のカバー範囲は極めて広範なつもりだが、今さら、「女性史」は殆どタッチしてないのに気づいた。

なぜか。

「無興味・無関心」というより、正確には、これまでに「視点」がなく、スタンスを持てなかった、というべきだろう。

 

我ながら凄い(?)というか呆れるのは、これほどスタンスがフーコー的なのに、「性の歴史」は一度も開いてすらない。

「視点」がない(なかった)、というのはその事実が物語っている。

(自分は「現代フランス思想」には一定の距離を置いていたという特殊事情もあるが、それについては今は措いておく)

 

「当事者性からの逃げ」は当然あったろうが、言い訳してしまえば、それは無知×余裕の無さからくるものだ。

フェミの論著は、単に学術研究ではなく、「訴え」を含んでいる。

こちらに、その受け止めるだけの「準備」(精神・政治・学術、そして生活etc.)がないと、しっかり受け止められないし、「応答」もできない。

 

学生時代は、ようやく「フェミニズム」という用語のみが、人口に膾炙したに過ぎない段階だった。

しかし、その時代の下地があったからこそ、ほんの僅かだが本を読んで考えに触れる、という最低限の知的営みは存在した。

もっとも、そこにいくつもの留保は付け加わった訳だが。

・「フェミニズム」そのものに対する疑念と警戒心

・また、リベラル言説総体に対する批判的読解

 (フェミ言説自体も、あくまで「そのうちの一つ」として摂取されたに過ぎない)

・何より、自分自身の専門(哲学・歴史、次いで経済)を固めねばならなかったこと

・「格差」の問題は関心があったものの、経済格差は特に世代間格差に興味が偏っており、性格差問題は後景化していたこと

etc.

 

2010年代は、振り返れば、日本社会にとって、「多様性の革命」の時期と今後位置付けられるかもしれない。

日本経済が地盤沈下するとともに、社会的リソースは逼迫し、積極的に目を向けられず抑圧されてきた「多様性」が主体としても、外部環境からも「覚醒」し得た。

(ここでも何度か扱った)#metooも含め、そうした社会的下地が十分にあったからこそ、自分自身もようやく目を向けることが出来るようになった、ということだ。

 

特に、日本社会は経済沈降と同時に、少子化が急加速している。

「家族」規範の底が抜けたことで、自民党=保守「本流(?)」が「守る」べき規範のすべてが、事実上、根拠を喪ったのだと個人的には見ている。

(「親ガチャ」という概念は、「儒教・家族規範(呪い)」への「子」からの「謀叛」と捉えてよい)

構造改革」が「自民党」の根拠そのものを破壊した。(小泉の唱えた)そのテーゼがまさに実現し始めた、ということだ。アベ-安倍体制というのは、その最期の残照だったとみるべきだろう。

 

「破壊としての構造改革」、そのプロジェクトが日本社会において完成しつつある。

そのためのツールとして、またプロセスとして、「女性史」が最強の威力を発揮する、というのが自分の考えなのだ。

 

「歴史というのはhis story(男性史)であってher storyではない」というフェミの視点に、かつて強い反感を覚えたのは事実だ。

では、今はそれを全肯定して受け入れるのか、といえばそれも少しズレがある。

なぜか。

(例えば、本当に女性が暴力的蹶起をして男性の「粛清」などを行うというのでない限りは)今の(「男性支配の」)「社会」を、政治的・社会的プロセスを持って変えていくよりないからだ。

 

前も論じたが、自分には、一種の政治的・社会的リアリズムがある。

日本の男性は、(特により上の世代のほうほど)精神的に未熟で、フェミの訴えなどは堪え難く受け入れ難いだろう、と見ている。

そして、フェミは歴史的に・また社会学的に、一方的にそれを断罪する訳だが、自分は、そうした「断罪」には一概には与しない。

なぜか。

そうした一方的な(いわば「上から」の)「断罪」は、社会的・政治的反発(バックラッシュ)を引き起こして、「男性」の態度を硬化させ、かえって改革や、その柔軟な受容を難しくしてしまう。その「現実」を知っているからだ。

世の中、「正論」だけが通用して自然に変わっていくほど甘くはない。

 

じゃあ何も変えないかと言えば、そうではない。

変えるために最重要なのは「戦略」だが、既存のフェミニズム男性学には、そうした視点が不足しているように見えるのが、自分が何より飽き足らない点なのだ。

そして、そこには彼ら自身に何より、哲学と歴史が不足しているからではないのか。

今度はこちらから厳しく断罪するなら、だからこそ、「批判」するしか能がなく、ポジティブに社会を構築するプランも、また手法も不足しているのだ。

そう見ざるを得ないのである。

 

抑圧・差別されている当事者が、「権力・支配力を持っている側が変えろ」と訴えるのには、妥当性がある。

しかし、社会がいつまでも同じで変わらないのに、その当事者自身も同じ地点にいてずーっと変わろうとしないのもまた、十分に「幼稚で未熟」とは言えないだろうか。

(特に「夫婦別姓」問題をみていると、強く感じる)

「正論を訴える」だけで変わらないなら、「戦略」を用いるべきだ。

あの手この手を使って知名度と社会的理解を高め、政治的な味方を増やし、少々迂回したとしても、次の世代が裨益できれば良い。

そうした「老獪な粘り強さと知恵」が不足しているように見える。

 

随分と前置きが長くなった。

自分が、今こそ「女性史」をやろうと腹が決まったのは、「法」の成り立ちという最深部に誰よりも深く切り込んでいける、という自負・自信が生じたからだ。

単に史的探究ではなく、その先「法」をどうする・どうすべき、という(政治的・哲学的)見通し込みのことだ。

 

「女性史」をやる難さとキツさとは、「男性」がただそれをやろうとするのは、自分たちが一方的に支配・抑圧・搾取してきた事実を突きつけられる苦行とならざるを得ない。

じゃあこれまでやってこなかったのは、「逃げ」で「卑怯」だったろうか。

客観的にそうみられるのは仕方ない面もあるかもしれない。

 

ただ、自分は(専門外と感じる限りは)「不関与・不発言」という最低限の「節」を貫いた(「語り得ぬものへの沈黙」)。

また、その間も「知りには行っていた」=「無知」なままでいいとか、そのままで居ようと立ち止まりはしなかった。

「差別」「暴力」には加担したくない一方で、それらを無くするというのは容易ではない。

不毛な泥仕合に足を突っ込んで、時間や精神を消耗している暇はないし、力も展望もないのに参加しようとするのはそもそも愚かしいことだ。

一方で、じっとその動きを距離を持って眺めつつ、情報収集はしておく。

 

自分は本来的に「運動主義」者ではない。

「自分が行動すれば世の中が変わる」といった単細胞的思考は持ち合わせていない。

じゃあ「冷笑系」かと言えば、そうでもない。

変えるなら、きちんとした知識・情報収集の上に立った「戦略」を構築し、その上で動くべき、と考えている。

 

こうしたスタンスは「保身」で「ズルい」のではないのか。

開き直るのではないが、それは認めざるを得ない。

学問というのは、「中立(ニュートラル)」な営みではない。

特に、現代のような激動期では「政治的」なものとならざるを得ない。

もちろん、それ(=「保身の狡さ」)だけではないというには、今後「結果」で示すよりないだろう。

 

「女性史」をやるには、方法論的な難さも無論ある(あった)。

が、今となっては、二義的なものに過ぎなかった。

今は「法」という強力な切り口を手にしているからだ。

「視点」さえあれば、今まで殆どやってない領域でもズンズン進んでいける。

そして、「近代主義」に立脚している社会学フェミニズムには絶対に切り込めない深みとまた新たなプロジェクトに達していけるだろう。

 

消えゆくホモソーシャルな「松本」的「笑い」

文春の仕掛けにより、突如、松本は事実上の「退場」を迫られるに至っている。

今後は裁判闘争が見込まれるものの、どのような見通しとなっていくかは、事実関係解明の進捗とともに、今後の展開次第だろう。

事実関係自体が最重要なのは当然だが、(現状ではその解明が開始されたばかりの段階でもあり)本稿では、それを云々することが目的ではない。

 

今回の騒動は、(先の「闇営業騒動」に次いでの)「芸能史上の重大な政治事件」になっていく(既に「なっている」か)筈だ。

自分の(「政治」上の)注目点としては、

・(事実関係やその解明含めた)松本自身の「ケジメ」のつけ方

・吉本は、いつまで松本に「伴走」していくのか

・今後の芸能界・お笑い界の、松本への距離の取り方

・政治関係=芸能秩序がどうなるのか

・コンテンツとお笑いの趨勢の行方

etc.

 

自分は「お笑い」自体はかなり好きなほうだと自認している。

が、子ども時代から、「松本」的笑いには全くといって良いほどハマることがなかった。

周囲では当然見る人が多いから見ようとしたことは一度ならずあるが、興味はついぞ持てなかった。

(理由は単純で、「(その提供する芸や笑いが)無教養だから」に尽きるだろう)

 

無論、彼の芸能や笑いへの功績や実力そのものも、彼を崇拝する芸人や、その人々により構成されるお笑い業界の構造というものも、十分に認識している。

しかし、それが故にこそ、特に2010年代は、テレビからもお笑いからも、全く離れた時期があった。

「内輪向け笑いやそのノリ」に我慢できず、正視に堪えなかったからだ。

そして、その(各種ハラスメント込みの)ホモソーシャルな構造(人間関係とコンテンツ双方)に無反省な芸能界・メディア界への嫌悪が抜きがたかったからである。

(自分が「お笑い好き」に「復帰」したのは、逆説的なことに、「闇営業騒動」と、ほぼコロナ禍に平仄を合わせた「芸人youtuber」ブーム以降のことだが、それについては本筋から逸れるので措いておく)

 

アイコンとしての松本の多面的巨大さを認識しているからこそ、今後の芸能界・お笑いの秩序と、またコンテンツ(やその制作過程)そのものがどのように変貌していくかに注目せざるを得ない。

松本の存在しない吉本、またはお笑い界というのは、「中心を失った世界・業界」、いわばアナーキーな状況となっていくと考えざるを得ない。

その「穴埋め」というのは不可能とみている。

(例えとして妥当か分からないが、「安倍死亡後の(旧)安倍派」のように、秩序そのものは、「集団指導体制」へと移行していくだろう)

 

問題の一つは、松本の事実上の「退場」により、今後の「お笑い(の芸)」の中身自体の最大「評価軸」そのものが、スポンと抜けることだろう。

「誰が、どう決めるのか」という、最大の権威、その拠り所を喪うことになる。

(松本が大小関与してきた、各種「賞レース」自体も、「松本の不在」による「締まりのなさ」が露呈され、存在意義、またはスタイルそのものが問われていくのではなかろうか)

今後、一体どうなっていくのか。

今後の秩序のあり方とともに、コンテンツ制作自体も手探りになっていくことが想定される。

 

次に、松本の構築した、ホモソーシャルな男性芸人支配のお笑い芸人秩序の行方である。

もっとも、「ホモソーシャル」なのは、「松本が作った」訳ではなく、メディア界・芸能界そのものの病巣であり、松本はむしろその(特にお笑い界・吉本における)最大の「象徴」であり「顔」だったに過ぎない、と見るべきだろう。

筆者の見るに、「松本騒動」は端緒に過ぎず、ハラスメントのニュアンスを遺した芸能人やメディア関係者は、今後も続々と同様の事件や告発により「退場」を迫られ、芸能界・メディア界の「クリーンナップ」が急速に進んでいくことになるのではなかろうか。

 

あるいは、今回の騒動を契機として、既に進行している「若手・中堅芸人」シフトに、一挙に雪崩れ込んでいくだろうか。

そうなると、「若手・中堅芸人」と、(いわば「松本系」残党としての)「年輩芸人」との力関係がどう推移していくか、ということになる。

それは、「視聴者間の代理戦争」の色彩を帯びていくだろう。

 

「昭和-平成型」のお笑いを依然として存続させていくのか、「令和型」のお笑いのスタイルを開拓していくのか。

ただ、保守的な日本社会、そして視聴者は、「簡単には変わってほしくない」というスタンスが少なくないのではないだろうか。

また、大衆に広く支持される、新しい芸やコンテンツを生み出しヒットさせるのは容易ではないし、今はメディア構造そのものがそれを生まれにくくしてもいる。

 

自分は、(松本支持者やネタ至上主義者のような)いわば「偏狭なお笑いファン」とは絶対に共有できないところだろうが、こうした「一大叙事詩としてのお笑いの変貌、その歴史」そのものが、最大の愉楽の根源と捉えている。

松本には、事実関係解明も含めた、しっかりした「ケジメ」をつけて欲しい。

が、現状では、個人的にはそれに対して悲観的見解を持っている。

 

「生命や実存にかかわるような深刻なハラスメント」は、決して「笑い」にはできない。

その訴訟の場もそうだ。

そして、「松本」的笑いや芸は、その「理解そのものを拒否」したところに成り立っている気がしてならない。

 

成り立つとすれば、「宮迫-亮の共同記者会見」以上のものがあるか、だ。

が、それは不可能と考えざるを得ない。なぜか。

松本自身が「加害者」として「告発」されているからだ。

彼は、どこまでも「王様」の立場でしか振舞い得ない。

(その観点で、「会社からの(事実解明への)抑圧」を告発することで、世間を部分的に味方につけられた宮迫-亮とは対照的と言える)

 

むしろ、類推すべきは、急速に消えていくことになった旧「ジャニーズ事務所」の像であろう。

事実関係解明が進んでいったら、「日本版#metoo」が、芸能界・お笑い界に再来し、それとともに、「松本」的笑いも、「松本」的吉本も、急速に追放され忘却されていくのではなかろうか。

しかし、芸能界・お笑い界のホモソーシャルな既得権構造は深く分厚いが故に、その抵抗もまた強固で頑強なものであることが当然想定される。

 

日本のメディアそのものが、きちんと「女性の訴え」を真正面から扱う方向へと変貌できるか。

それは「エンタメ」にはなり得ない。「法」過程であり「政治」過程の一部である。

それを実現しようとする過程で、メディア業界と関係者が、どのように変貌を迫られ、どう対処し、実際に変われるのか・また変わらないのか。

そして、問われている客体は、実は、「お笑い業界」「メディア業界」ではないかもしれない。

「視聴者=大衆」「日本社会と日本文化」そのものが、その変貌への要求に応えられるか。

そうした重大な岐路に立っているのではなかろうか。

「北欧厨」は「現実逃避の趣味の世界」に過ぎない

前々から気にかかっていた、日本の労働組合(法)・労働運動史に取り組むことにした。

無論、「リアルの政治・社会・法(構造)の課題に正面から」取り組むためだ。

 

「北欧厨」と切り捨てる表現をしたのは、意図がはっきりとあるからだ。

社会学界隈では、もう20年ほど「北欧モデル」への憧憬を示すトレンドが明確にあるし、また実践ベースでも、そうした取り組みを「輸入」している人々も少なからずいる(筆者の直接の知人にもいる。社会起業や農業等、北欧のみでないが「オルタナ」的ニュアンスを取り込んでいる人々が見られる)。

 

こうした取り組みには、日本人・日本社会のライフスタイルや人々の思考法転換という点では重要な意義を認めている。

が、「社会改造」という点では、戦略的に殆ど意味を持たない、と捉えている。

なぜか。

簡単なことで、産業の成り立ちも、社会の成り立ちも、法や組合・運動、福祉制度のあり方から何から何まで、北欧とはまるで「歴史」が違うからだ。

それらの「社会・組織・法構造」に深くメスを入れない限り、日本の国や社会を「正統的な形で」前に進めることはできない。

(「オルタナ」の導入は、「大衆トレンドの搦手から」の戦略と見なすことはできる)

「北欧のモデルが素敵だから」と憧れる気持ちは分からないではないが、政治的・社会的戦略の有効性は、それ(アイデアや取組の輸入)だけでは極めて低いと言わざるを得ない。

 

筆者が「北欧厨」と侮蔑的なニュアンスを込めたのには、もう一つ理由がある。

「北欧モデルをまるっと輸入する」という発想そのものに、(日本の「外来思想翻訳・輸入」系知識人にありがちな)「思考停止」がありはしないかと勘繰っているからだ。

古代は中国から、近代はヨーロッパから、戦後はアメリカから、そして今度は、「北欧から」まるっと思想や取組を輸入してこよう、というように筆者には見えてしまっている。

※また北欧厨は、軍事の問題(北欧とロシアとの関係)をきちんと認識しているのか?という重大な疑念もあるのだが、ここでは逸れるので措いておく。

 

「輸入」というのは、自分で考えずとも、すでに出来上がったプログラムがよそにあるから、それを翻訳してカスタマイズすればすぐ使える、という点では便利で手っ取り早い。

それに引き換え、「社会・組織・法構造」に深くメスを入れるなどという作業は、途方もなく大変な上に、既存の理論や既得権から激しい反発を食らうリスクを冒さねばならぬ。

「最新外来思想の崇拝」というのは日本人の宿痾だと思っているが、この「病」に、知識人は重篤に冒されている割に、その危うさと馬鹿さ加減を自ら認識できず、かえって誇る始末なのだ。

 

「北欧モデル」に憧れて、輸入して鼓吹したり、また実践するのは自由である。

上述の通り、筆者もその意義は認めている。

だが、それはやはり、日本社会では「個人の趣味」の世界に過ぎないというのを同時に認識すべきだ。

知識人、特に社会科学系の学者・研究者がそれにコミットすることは、(日本社会の厳しい「現実」からの)完全な「現実逃避」なのだ、ということを意識して取り組むべきである。

 

「人手不足の昂進」が、「搾取限界の天井」に達したこと

「人手不足が日本社会を崩壊」させている、ということが日々報じられるのみならず、経営・労働・消費のあらゆる局面で、各人が「当事者」として実感されるものにもなった。

まだ、完全な「人手不足の頂点」に達しているというほどではないにせよ、これからさらにあらゆる業界・あらゆる現場で「極限状態」へと突進していくことになる。

恵まれている業界業務や地域と、そうでないところとの格差が極大化していく。

 

個人的には、このことは非常に好ましいことだと考えている。

基本的には「人手不足」の「売り手市場」で、「まともでない職場」は選ばれず、淘汰されゆく運命となるからだ。

現に、近年は「人手不足倒産」も珍しい現象とは言えなくなった。

働き手から選ばれるためには、「真っ当な賃金、真っ当な労働環境」を整備しに行かなくてはならない、という当然の環境条件がようやく整いつつあるということなのだ。

 

しかし片方で同時に、(もっぱらサービス業中心ではあるが)片端から辞められてしまって回らなくなり、残った人員で職場を回さねばならずに一人当たりの業務負担が増して生産性は低下、そして稼働率が落ちて業務自体が縮小する、といった事態も加速している。

労働力の奪い合いは、「経営体力×先行きまで見据えた(賃金含めた)雇用環境整備」の過酷な競争に突入してきた。

保たないところは、縮小均衡→タコの自足の食潰しで自らの「余命」時間を切っていくか、「回せる人たちだけで細々回す」のを続けられるまで続けていくことになる。

 

90年代の大蔵省不祥事、あるいはバブル前辺りまでは、「日本の官僚と官僚機構の優秀さ」が喧伝されていたことは歴史的に知っているが、コロナ禍以降は、全くそれが想像できなくなった。

東芝が「チャレンジ」と称する実現不可能な経営目標を課したことで粉飾決算に手を染め自壊したことはよく知られる。

しかし、これは、ゼロ年代以降の構造改革の必然的帰結と見ている。

「デフレ下のリストラされた痩せた組織×目先の利益追求のみ」の条件下では、「残された資源と人員を極限まで使い倒したうえで自ら食潰す」しかないからだ。

成功して収益を集め、恵まれた環境を提供できる一握りの「勝ち組」の企業や組織以外は。

 

しかし、皮肉抜きにこれでいいのではなかろうか。

人手不足で日本社会は、壊れるだけ壊れてしまえばいいのだ。

老子の「大道廃れて仁義あり」という好きな言葉がある。

人手不足の極大化で、維持できなくなる業種業務や地域は確かに出てくるだろうが、それはまさしく彼らの「自己責任」というやつではないのか。笑

ここからは、上記の「勝ち組」企業や組織以外に、「先の経営を見据えて、真っ当な労働環境を整備する」真っ当な会社や組織が、少しずつ、しぶとく生き残っていくのではないだろうか。

それ以外は、「構造改革のもたらした荒涼たる競争社会」に破れ、経済の摂理に随い死に行く運命にあるのだ。

 

まあ、それで「日本社会総体」として生き延びれるものと言えるのかは知らんけど。笑

 

(「負の企業経営者・組織×負の労働者」という「負のゾンビ的共依存」は依然抜きがたく続いていくだろうし、それはそれ自体として大問題なのだが、それは別論としたい)

 

【モテ論】女性主張する「清潔感」のミスリード

一応「モテ論」と付したが、別にいわゆる「モテ男子」でもない筆者がこれを論じるのも変な感じもある。

とはいえ「セックスプア」でもなく、「非モテ」属性という訳でもない。

以前も少し論じたことがあるが、「モテ/非モテ」という議論の仕方自体も、差別的・特権的な概念や用法に基づくものかもしれないが、依然その部分の文脈は押さえていない(怠慢や無関心なのではなく、既存の議論を参照する前に、もう少し自分の視点を詰めておきたい、ということ)。

 

「モテ/非モテ」という概念に対して、ある程度突き放した見方はできる。

といって、別にいわゆる「モテ術」を披露しようというのではない。

そんなものはネット上に溢れているし、第一、筆者に独自のものがあるというのでもない。

(前も書いたが、筆者は、主観的に「モテ願望がない(=モテたくない)」というスタンスを持っている)

 

ここでは、女性がよく主張する、「清潔感」という概念について論じたいのだ。

女性が男性を見る際に、「清潔感」を見る、というのはよく見聞きする。

まあ確かに、と思う一方で、「うーん…」という感じもある。

 

この「清潔感」という概念や主張を、「男性側として」どう捉えるべきなのか、というのを考えてみたい。

女性の主張に耳を傾けてみるとこうだ。

「男性というのは、身だしなみとか服装、外見面で想像以上に不潔・不衛生な人が多い。それを改めてもらえるだけで、最初のハードルはクリアされる」

というのは、一つの最大公約数の意見として集約できるのではないか。

 

難しいのが、「清潔感」というのは、「必要条件」である場合と、「必要十分条件」である場合と、両方が含まれるように思われることなのだ。

「清潔感」のいうのは、曖昧さを含んでいるし、幅の広い便利な概念としての側面もある、ということだと捉えているのである。

 

確かに、外見面が不潔・不衛生なままで、女性の前に現れる男性が多く、その人たちがその時点で(女性の内心で)「不合格」とされるだろうことは容易に想像がつく。

しかし、「それ(=外見の清潔さ)だけなのか」というのが、ここで行うべき重要な問いなのだ。

 

「清潔感」というのは、確かに、女性側から要請する概念の「最大公約数」としては便利な概念だろう。

ただ、男性側にとってみると、やや「説明不足」というか、「不親切」な面もあるな、とも捉えているのだ。

 

(このような言い方をするとまた「差別的」と取られてしまうだろうが)「清潔感」というのは、「その相手とのセックスを受け入れられるかどうか」の最初の条件、と見ることが出来る。

ただ、当然ながら「男性観、その受容条件」には当然女性により個人差がある訳で、「清潔感」に、どこまでの意味合いや範囲を込めるのか、ということになる。

 

一つ筆者が考えるのは、「安心感」だ。「(初めて会った)その先を見てもいいよ」という(または相手が見たいと思うよう仕向ける)メッセージを、言外に、雰囲気として与える、ということである。

そこまで行けば、「清潔感」の最低限示すところの「必要条件」を超えて、「モテ」に近づくことができるだろう。

(ただし、「安心感」が「友人」とか「家族」の与えるものと同じでは困る。「異性として」のそれでなくてはならない)

 

次に、反対に今度は、「非モテ」の視点に即して考えてみよう。

非モテ」=「清潔感」がない存在、ということなのだろうか?

「清潔感がない」は、「非モテ」を構成するあくまで一要素に過ぎない、と考えている。

「清潔感がない」は、結果論というか、(「非モテ」を)観察した結果の一つに過ぎない、ということだ。

 

筆者が考える「非モテ」とは、

1女性の、「自分に対する批評」を受容していない・できてない

2自分の「世界観」を重視し、そこに閉じてしまっている

存在である。言うまでもなく、この2つは表裏一体の要素だ。

 

女性とやり取りしていると、結構ポンポンと遠慮ない批評を(自分に対してだけではないが)投げかけてくるものだ。

ただ、「非モテ」が「自分の世界観」に内閉したままであると、「傷つきやすい、脆い」ままで、そうした批評を容易に受容できないどころか、ムキになって否定したり、逆恨みして攻撃しようとすらするかもしれない。

非モテ」を突破するには、女性の批評を受容し、自らの閉じていた「世界観」から抜け出るしかなく、また「そのこと」を客観的に認識できるようになるしかないのだ。

「自分を守りたい」という心性が強すぎると、そこから永遠に抜け出せないスパイラルにハマる。

 

「清潔感がない」という女性側の批評も、正しいだろうが抽象的だし、抽象的にならざるを得ない事情もある。

女性側に常に、男性に対して正確な批評を下す権利や義務が与えられているわけではない。

大して知り合う仲でもない場合は、傷つけたりトラブルになるリスクもある。

しかし、抽象的である限り、男性の側が、その意図するところを正確に理解できるとも限らない。

 

むしろ、「女性の本音を引き出せる」ようになったとしたら、その男性は既にもう半歩か一歩は踏み出せている筈だ。

自分の殻を破り、「相手の本当の声」を求めに行っているからだ。

 

では今度は、「モテ」とは一体何か。

こちらは割とありふれた回答となってしまうが、「相手や場の空気を読んで、ニーズにしっかり応えられ、むしろ相手の望む方向にエスコートできること」。

「如才なさ」。即ち、優れた営業マンの特性と同じだ。

「相手のニーズを把握して、それ以上のものを提供できる」こと。

 

※余談?にわたるか分からないが、筆者が「モテ願望がない(=モテたくない)」と述べたことについて触れておこう。

筆者は、上記のような「モテ」人間になりたくない、ということなのだ。

自分の気持ちとしてやりたくないということと、それで人に余計に寄って来られても困る、という両方の理由がある。

 

ではなぜ「非モテ」でもないのか。

上で述べた、「女性の批評」を理解して取り込めるということが一つ。

(こちらが会いたい)相手のターゲティングが明確であること、上で述べたうちの「安心感」を演出するややニッチなワザを習得している。

要は、ややマニアックだが「成功するマーケティング術」を持っているから、と言えばいいだろうか。 

 

 

随分と長く論じてしまった。

「モテ/非モテ」とか「清潔感」というのは、重要な割に、抽象的になってしまう傾向があると捉えており、その概念の「奥行き」を展望し、それらの関係性も論じてみようというのが、今回の試みだった。

うまくいったかは分からない。

より混乱を増しただけなら申し訳ないというよりない。

(感想等あれば歓迎します。応えられるかは分からないけど)

 

また、今回はもっぱら「女性→男性」を眺めるベクトルなので「清潔感」がキーワードとなった。

「女性の非モテ」の場合をどう捉えるかについては、これは個人的にあまり関心がない。ただ、どのような相違があるかや解決策がもたらされるのかは、少々興味がある部分ではある。