エデン(2012)
※同タイトルジュード・ロウ主演の「Eden」(2024)とは別作品なので注意。
一部ネタバレ注意。
誘拐した少女を隔離された地下収容施設に監禁し、デリバリーする売春組織から、1人の少女が脱出を試みる衝撃作。
Chong Kimの告発した実話に基づくという。
衝撃という割に既に感度がやや鈍ってしまっているのは、エプスタイン事件のせいかもしれないが。
ただ、様々の角度から物事を考えられる、非常に優れた作品であった。
これを見ていると、女性が「暴力により直接間接に抑圧されている環境で、どのような『反応を強いられるか』」ということが、非常に「誤解の余地のないように」描かれている。
よく男性が「自発的ではないか」という類の「ズレ(誤り)」がなぜ生じていくのかがよく見えてくるのである。
主人公のヒョンジェは、賢く暗算が出来るスキルを買われて、他の子たちから一歩抜けて組織の仲間に入って隙を窺っていく。
しかし、これは自らの身を守りつつ、脱出のチャンスを窺うためである。
「監禁下の売春組織」というのは極端な事例に思えるかもしれないが、「抑圧された女性」社会のあり方の「陰惨なアナロジー」として捉えることも可能だろう。
ただ、そこには「サバイバル」(「裏切り」など)があるのも確かだ。
少女を誘拐するギャングたちが、「崩壊家庭にいるより、組織に飼われている方がマシだ」という身勝手な主張をするのだが、それは昔、呉善花「スカートの風」で、同じく女性のブローカーをしていた人物が、「私たちの存在が、彼女たちの為になっているのですよ」という主張とそっくり同型なのに思い当たった。
ネタバレを避けるが、他にも冷静な描写の中に、ドロドロした世界の暗黒面が詰まっており、嫌悪感の中に「勉強になる」という、独特の感じを抱いた作品だった。
ノーマルハート(2014)
1980s初頭ゲイ・コミュニティにおけるAIDS発症・発見史を再現した、衝撃のドラマ。
様々な点で、非常にチャレンジしてくる映画だった。
まず、なぜこの映画に行きついたか、から軽く。
現在「現代音楽史」を追いかけているのだが、「プリンスが、性革命の旗手として取り上げられていた」という記述を見ていて、その背景が気になっていたところだった。
「エイズが、ゲイ・コミュニティからの症例観察から、主に『発見』されていった」ことは、知識としてはぼんやり知っていたに過ぎない。
日本は特に、「薬害エイズ」という独自の文脈が存在していただけに、そうした「発見史」自体が見えづらくなっている、という特殊事情も存在している。
日本でも、テレビなどのトレンディドラマにおいて、「同性愛」的描写は近年はほぼ一般化したと言える。それは好ましい変化と言っていいだろう。
今回感じた「ハードさ」というのは、そうなるとその「文化的相違」部分が大きいのだろうか…?
そこは(率直に言ってあまり「気の進まない」部分ではあるのだが)、「探究すべき余地」のある部分かもしれない。
扱うテーマ自体が難しいだけに、敢えて自分なりの「補助線」を引いた。
「COVID-19以降」の視点で見る、「感染症(発見)史」としての視点である。
M.D.グルメク「エイズの歴史」(中島ひかる・中山健夫訳)をこの機会に読んでみた。分厚い専門的な疫学史書なのだが、非常に面白い。
エイズというのは、発見史の初期は、「がん」の一種(主にカポジ肉腫。これ自体はエイズとは独立別個の疾病)の症状の観察が成されていたのである。
エイズは、「感染症」ではあるが、同時に「免疫学」「腫瘍学」の「境界的」な疾病であるために、全容解明に困難を極める部分があった、ということなのだ。
つまり、エイズ自体が、「医学史そのものの、エポックメイキングな疾病」でもあったことを意味しているのである。
問題は、それが初期は、「米国大都市のゲイ・コミュニティ」からのサンプリングであった故に、「ゲイ差別と深く結びついた」こと、特にまだ「ゲイ文化そのものの社会浸透が一般化もしていなかった」故に、社会的・政治的断層を深める結果となった、ということだろう。
確かに、映画を見ると、当時の「性革命」の空気感がどのようなものだったのかを、多少窺い知ることができるとは感じる。
以前、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」は、「エイズ文学」の一種ではないか、という説を目にして、興味を惹かれたことがある。
その主張には、一定の根拠を認めることができる。
「文学」も、「文章である」分にはよい。今回、自分も「エイズの歴史」という「文言の世界」へと「逃げ込んでしまった」。
尤も、「知的経路からの把握」という面では、むしろ「冷静な」手法に行けた面もあるかもしれないが。
日本では、「LGBTQの割合は10%程度」と言われている。
「差別感情はない」と「頭だけで」勝手に決めつけていても、直接の知り合いででもない限り、あまり身近には感じることが出来ない。
昔、学生時代に、友達と興味本位で新宿三丁目に遊びに行き、そこのポルノショップを覗いたことがあったのだが、そこでポルノビデオ映像が流されていたのを目にして、強いショックを受けたことがある。
これが「差別感情か?」と言われると、やはり「微妙」というべきラインだろう。
セクシュアリティに関わる問題だからだ。
LGBTQの区分は、内実は数十もの区分があるらしいが、それを「それ以外の人々も皆理解すべきだ」といった主張は「馬鹿げている」と考えざるを得ない。
しかし、だとするならば「どの程度、どこまで理解すべき」なのか?
そうした「倫理的問題」を考えること自体は「放棄されてはならぬ」とは思うのである。
映画「Black Box Diaries」
ともかく公開期間を逃してはならないと。
言わずと知れた、ジャーナリスト伊藤詩織さん「Black Box」ドキュメンタリー映画化作品である。
感想を箇条書き風に整理した。
・内容以前に、まず、本作が国内で公開に至ったということ。
安倍前首相の死、テレビメディアのこの手のセクシャルハラスメント案件への社会的批判の激化、あるいはテレビ自体の影響力凋落という「政情変化」無くして、「国内公開」はあり得なかった筈。
それ自体は歓迎すべき変化と言えよう。
・席は満杯で、関心の高さが窺えたものの、ものの見事に中高年の「おっさんおばさん」ばかり(自分含め)だった。
10,20代は恐らくいなかったのではないか。
そもそも若者世代には、知られてすらないのかもしれない。
・内容・構成は文句なく「面白い」ものだった。
意外と「若手女性ジャーナリストの、青春セルフ闘争ドキュメント」としての筋が、一貫しているのではないか。
確かに「サバイバー」としての苦痛も映されるが、日常の伊藤さんは、快活でユーモラスな性格が非常に印象的である。
・自分が本作に興味を抱いたのは、公開前から「プチ(?)炎上」を起こしていたことであった。
どうも、「メディア内部(しかも、それまで伊藤さんを支援してきた人々が含まれる)からの批判」があったことに、興味を抱いたのがきっかけだった。
伊藤詩織監督『Black Box Diaries』をめぐる噛み合わない議論の本質。「10ヵ月後の会見」で見えた食い違い(蓮実 里菜) | FRaU
それに関する感想は、下記で改めて整理する。
・原作「Black Box」は、自分も刊行間無しに購入した。
が、しばらくは殆ど「積読」にしていた記憶がある。
当時の事件への感度・関心は今ほどではなかった。
「性暴力」問題の遠さと、当時の安倍政権に対する「自己疎外」的無関心があったと思う。
ただ、セクシュアル・ハラスメントや性暴力を個人として訴える#metoo自体は好ましい変化と捉えていた。
(自分も当時やっていたTwitterで、セクハラ的風潮の強かった職場状況を共有した覚えがある)
・本作を見ながら改めて驚愕を覚えたのは、彼女が文字通り「孤軍奮闘」から「闘い」を起こしていたことである。
彼女は、家とも、家族とすら「別れ」を告げ(まさに「出家」のように「世間を離れて」)、過酷なジャーナリズム&訴訟活動へと踏み出していった。
家を貸してくれた友人たち、弁護団、メディア関係者たち、警察内部の「捜査官A」などが、彼女を初期から支援した面々であった。
それが、「実名顔出し」記者会見により、環境が大きく変わることとなる。
・それ故に、本作は、「自らを、自ら集めてきた」周辺画像を編集したもの、またプライベートドキュメントとしての色合いが濃い。
「闘い」も、「記録自体も」、「手作りで」やっている。
それが「孤軍奮闘」の意味合いである。
・メディア(いずれかと言えば伊藤支援側)が批判するのは、その部分ではないか、と個人的には推測している。
「ジャーナリストとして」なのか、「被害者・サバイバーとして」の訴えなのか、判別がつかない、という。
そこには、「支援メディアからの資料の無断使用」といった「実際的」側面もあるらしい。
これをどう考えるか、である。
・自分は、このメディアによる批判は(理解できなくはないが)「本質を外している」と感じている。
つまり、基本的には、「噛み合わない」会見では「伊藤さん側に、(理がある、というより)『情理が向かうべき』」と考えるのである。
・どのような意味合いか?
重要なのは、この「元の事件(暴行事件)」は、「彼女のキャリアの駆け出し」のステップに起きた、ということである。
彼女の特異性は、「自らの事件」それ自体を通じて、「ジャーナリストとして歩みを進めた」(彼女の「就職に関する相談」の流れの中に、当該暴行事件が生じていた)。
これは批判などではなく、「事実」である。
・ポイントになるのは、彼女のジャーナリズムの「手法」に、「彼女自身(のサバイバーとしての実存と体験、その訴え)」が「不可分」のものとして「融合」している。
恐らく、その事象自体に、既存メディア側は「困惑」を覚えたことは想像に難くない。
・では、なぜ自分は、メディア側でなく、伊藤さん側に「情理を向けるべき」という独特の立場を取るか?
簡単なことで、「作品を世に出すこそ、最大の意義」(という伊藤さんの大義)は、「メディア内部のルールや仁義」に優先されるのは「有り」(ジャーナリズムというより、「運動性」優位の前提だが)と捉えていることが第一。
・第二に、上述の事情があるから、「ジャーナリストとしてなのか、サバイバーとしてなのか?」という「問いかけ」自身に、やはり(「当事者」から離れているが故の)「暴力性」を感じざるを得ない。
「だから何をして訴えてもいい」とは、当人も考えてないだろう(実際の事情は当然知らない)が、要は(何を載せ、誰に配慮すべきかの)「優先順位」の問題で、仮にそれまで協力した関係者も、「メディア仁義やルールに反する」というなら、単にそれを彼女に直接注意するなり、それを理由に今後は非協力なり付き合わなくなればいいだけの話、に見える。
・「誹謗中傷」が「女性から」寄せられていたシーンが印象的だった。
「恥を知れ」とか、「アイドル気取りで」とか。
・珍しく、「これが『正義』というものなのか」と実感を得る瞬間があった。
件の事件が起きたホテルのドアマンは、最初ホテルから口止めされたものの、のち民事訴訟で証言に立つことを申し出、伊藤さんがその意思確認を電話でした際、「この社会環境は変わらなくてはならない。職場から何を言われようが関係ない」と力強く「応答」したことだ。
・自分が「男性当事者として」感じたのはどういうことか?
加害者側の暴行に至るシーンが公にされてしまう、あれほど「恥ずかしい」ものはない。
「その人の全て」がそこに「露わになってしまう」のだから。
尤も、「持てる権力に鈍麻」してる当人は、そうした「恥ずかしさ」というものはないかもしれないが。
・日本の司法そのものの課題。
近年は、日本の検察の「不起訴連発」も広く知られつつある。
「刑事司法」(警察、検察、裁判所、拘置所・刑務所に至るまで)がいかに「歪んだ」存在かも。
「性犯罪・性暴力」面は、その「最深部」ではあるものの、またその「一環」に過ぎない。
・本作は、彼女が「自らを語る」際に「英語で」語っているシーンが占めていた。
帰国子女の彼女は、英語が非常に堪能で、日本ではなかなかメディアでの公的な訴えができない中、海外で先行してドキュメンタリーが公開されるなど、粘り強く活動を続けていたことがわかる。
この「海外チャネル」の開拓無くして、今日は絶対にあり得なかった。
余儀ないものだったかもしれないが、強力な戦術であり戦略となったと言える。
公開だけでなく、配信されて、広く観られるべき作品なのは言うまでもない。
一方、「性暴力」というのは、無縁な人には「近くて遠い」問題に留まるのも事実だ。
今回は、「正義」という概念について考えた。
「性暴力」は「被害者と、その環境の全て」を破壊する性質を持っている。
「反転して」というのではないが、「人権」概念を「突き通す」ためには、「組織を丸ごと破壊」することすら躊躇う必要はない、と考える。
「何かを押し潰して、本来守るべき『人権』を抑圧」するような組織は、そもそも何らかの「無理な歪み」が存在している筈だ。
無論、それは「社会の歪み」自体と直結するものでもある。
「世間」もまた、「人権」は「抑圧」する方向へと、常に動こうとする。
そもそも、知らず知らずのうちに、自らはそこに何らかの「加担」をしていないか?
家族に「伊藤詩織さんがいたら」、やはり「訴訟や実名顔出し記者会見は思い止まって」と言うのではないか?
「世間と闘う」には、「何かは犠牲に」せねばならぬ。
いくら「自分(たち)は『被害者』なのにおかしい」と感じても、それが「現実」である。
「正義を守る」「人権を守る」は、「美辞麗句」ではない。
文字通り、「命と生活を削って」捧げねばならない。
それができない限りは、「加害者=世間」側に属する選択肢以外にないのである。
何にせよ誰にせよ、「日本初の女性首相」誕生はうれしい
「進次郎首相」路線の「絶望待機」をしていたが、意外にも高市新総裁選出の報。
議員票は大接戦のようだったが、地方票で巻き返した。
ギリギリで進次郎のスキャンダルが次々報じられたのが間に合ったようだ(無論党内「派閥力学」も何らか健在ではあったろう)。地方自民党員の「良識」に「感謝」するよりなかろう。
高市を「女性初首相」として送り出すのに複雑な向きもあるだろうが、「ガラスの天井」を遂に打破した意義と功績は極めて大きいと、素直に評するべきだろう。
(何しろ米国ではまだ「女性大統領」は登場していないのだから。尤も、日本でも「近代以降の女性天皇」は未登場だが)
高市に、「女性政策」の類を期待するのは「ご無理」というものだろうが、彼女はまだ、「自民らしい政治家」の空気感は残っている。
仮に「リリーフ総理総裁」だったとしても、間違いなく日本社会・政治として「大きな一歩」を踏み出したことは間違いなかろう。
「女性首相」だからと言って、選挙で「女性票」を期待できるわけでもないのが面白い「ねじれ」とも言える。
ただ、野党にとって「やりやすい」状況になったわけでもない。
政治そのものには、元より「期待値0」だが、「政局」そのものは、「野次馬」として観戦し楽しませてもらうこととしよう。
「女子アナ」枠が淘汰されるのか
フジ第三者報告が公表された。
大部なので、まだちらりとしか読めてはいないが。
去年初、松本騒動を機に書いたブログではあったが、「第二次#日本版metooが起き、メディア界のクリーンナップが起こる」という予測は、かなり正確に推移したとも言える。
テレビ局一局を揺るがす、政治社会の一大事件になるとまでは、到底想像もつかなかったが。
消えゆくホモソーシャルな「松本」的「笑い」 - セルフケアと「男性」性
「衝撃的」というのは、「内容そのもの」ではなく、「遂にそれが、世に公表され、白日の元に実態が晒されるに至った」ことでしかない、とみている。
「性接待がある、あった」といったこと自体は、「日本のメディア界・芸能界では、あっても不思議はなかったろう」といった「見当はつく」からだ。
やや古いが、「ディスクロージャー」(マイクル・クライトン)というセクシュアル・ハラスメントを扱ったビジネス小説がある。
それは中学の頃に読んで、「セクシュアル・ハラスメントというのは、権力の問題なのです」という登場人物の弁護士の言葉が、深く心に刺さったのである。
そもそも、この「女子アナ」という呼称自体が、「JK」「JD」のような、「性的消費」のニュアンスを多分に含んでいる、というのは若い時分(めざましテレビを好んで見ていた)から微妙な気分で見ていた。
その頃は、その「微妙な気分」の正体が分からなかったのである。
「女子アナをタレント化して売り出し」は、まさにかつてのフジテレビの「王道」路線の一つだった筈だ。
今となっては、テレビを見ないので、それがどうなったかすら洞察出来もしないのだが。
「女子アナのタレント売り」がなくなれば、間違いなく「民主化×ハラスメント環境の改善」の「一歩」は進むかもしれない。
一方、「大衆=視聴者」も、「テレビ局・メディアのクリーン化」を歓迎する層が一定数いる一方、ついていけない年代の男性層が「離脱」していく可能性もある。
社会やメディア界全般にはメリットがある一方で、テレビは「別の見せ方」の提示が求められる局面が出てくるだろう。
それがどのようなものかはわからないが。
しかしそれは、魅力的なものでなければ、「倫理的に正」であっても、「テレビ離れ」はむしろ進むリスクもある。依然難しい舵取りを求められ続けるだろう。
第三者報告でもフジに関して指摘されているが、日本(に限らないが国際的にも特に)の大企業の経営層は、依然男性が圧倒的多数を占める。
いずれは日本も、クオーター制か、それに準ずる制度を目指さざるを得なくなるのではないか。
「どこか1社だけ」の特殊事例では、決して社会は変わらないからだ。
「社会全体を、法で強いて強制的に」変えに行かなくてはならない。
が、今回、そうした「深部」までメスが入るとは考えにくい。
まず、今後「女子アナ」枠の扱いがどうなるのか、その部分を注視するよりなかろう。
気の毒だった「ダシのダシ」
(何も具体的なことが書けず、非常に抽象的な体験談に終始しています。読むことはあまり推奨しません。いずれかと言えば記録目的のため?)
昨日は、妙に面白いことがあった。
とある案件絡みだったのだが、プレゼン?めいた約束のある直前に、「横槍」(?)が入ったのである。
「横槍」といっても、別にそう不益なものでなく、取りようによっては「助け舟」になったかもしれないのだが。
その「横槍」を入れた人には固有の目的があったものの、折悪しく叶えられることはなかった。
しかし、皮肉にもその「横槍」がきっかけで、プレゼン?直前に、「全然別の方向性」を着想してしまったのである。
そうすると、ここまで練り上げてきた内容にかなりの根本転換が必要になるのか。
結論から言えば、そこまででもない「微修正」に留まった。
が、「多少は考慮可能な」アイデアを刺激したのもまた事実であった。
その「横槍」を入れた人の気の毒と道化ぶりには、失笑を禁じ得なかった。
その人がタイミングを得なかったのは、様々なディスコミュニケーションの積み重なりによるものだった。
その「横槍」は、結局単に内々のものに収まってしまい、恐らく何かにはならないだろう、という気はしている。
ただ単に、(確固たるアイデアというより)きっかけ、あるいはインスピレーションをもたらした、まさに「ダシのダシ」として利用されるに終始してしまったのである。
しかし、社会や人生の「機」というのは、本来そのようなものでしかないのではないか、という気もしている。
「運」は自ら引き寄せるべきものだが、そもそもそれが希薄だったに過ぎない。
しかしそうすると、「大きな流れ」からは淘汰されてしまう。
全貌が見えたわけでもないし、それはまたさしたる意味はないと思うが、「運と機の引き寄せ」が「生存競争」の決め手にもなると、非常に身近に、そして具に観察できた興味深い機会だった。
仕事をサボって「寄り添う」メディアと政治屋
最近やたら耳障りになってきたよく聞くフレーズは、「被害者に寄り添って」の類いの「寄り添う」という謎動詞だ。
どうも、メディアやら政治家が口にする印象が強い。
「誰もお前らに『寄り添え』とか頼んでないわ。そんなことより早よやるべき仕事せい」ということになる。
そう、要は、「やるべき仕事に正面から取り組んでない、見つめられない」状況から批判や注意をかわす、最近最も流行りで人気の、「もっともらしいその場限りの言抜け」として活用されているのだ。
そもそも、そんな「寄り添う」などというのは、あまりに主観的で感傷的過ぎる単語なのもキモいと思う根源だし、権力者が弱者に使っているのは趣味の悪い冗談としか思えない。
そんなその場限りの言抜けよりは、「関係機関に連絡して、適切な処置を取らせている」という「官僚的」言明の方が「ウソがない」(実際にはウソかもしれないが)分まだマシではないのか。
あるいは、そうした必要適切な行動すらしない、したくない、ということかもしれないが。
もし、視聴者や有権者が、そうした口先の「寄り添う」という言葉に「うんうん、偉い偉い」などと「納得」しているとするなら、それこそ「主観的、情緒的過ぎる」というべきか、あるいは「何もできないけど気の毒な人々に『同情』はしたい」という気持ちをその連中は「代弁」、あるいは「掬い取っている」面があるのかもしれない。
公的なポジションの人物の「寄り添う」は、「社会にも被害者にも弱者にも、1ミリの価値も前身ももたらさない」。
「無能で無意味な、無為の時間稼ぎ」でしかないと断言しておこう。