ともかく公開期間を逃してはならないと。
言わずと知れた、ジャーナリスト伊藤詩織さん「Black Box」ドキュメンタリー映画化作品である。
感想を箇条書き風に整理した。
・内容以前に、まず、本作が国内で公開に至ったということ。
安倍前首相の死、テレビメディアのこの手のセクシャルハラスメント案件への社会的批判の激化、あるいはテレビ自体の影響力凋落という「政情変化」無くして、「国内公開」はあり得なかった筈。
それ自体は歓迎すべき変化と言えよう。
・席は満杯で、関心の高さが窺えたものの、ものの見事に中高年の「おっさんおばさん」ばかり(自分含め)だった。
10,20代は恐らくいなかったのではないか。
そもそも若者世代には、知られてすらないのかもしれない。
・内容・構成は文句なく「面白い」ものだった。
意外と「若手女性ジャーナリストの、青春セルフ闘争ドキュメント」としての筋が、一貫しているのではないか。
確かに「サバイバー」としての苦痛も映されるが、日常の伊藤さんは、快活でユーモラスな性格が非常に印象的である。
・自分が本作に興味を抱いたのは、公開前から「プチ(?)炎上」を起こしていたことであった。
どうも、「メディア内部(しかも、それまで伊藤さんを支援してきた人々が含まれる)からの批判」があったことに、興味を抱いたのがきっかけだった。
伊藤詩織監督『Black Box Diaries』をめぐる噛み合わない議論の本質。「10ヵ月後の会見」で見えた食い違い(蓮実 里菜) | FRaU
それに関する感想は、下記で改めて整理する。
・原作「Black Box」は、自分も刊行間無しに購入した。
が、しばらくは殆ど「積読」にしていた記憶がある。
当時の事件への感度・関心は今ほどではなかった。
「性暴力」問題の遠さと、当時の安倍政権に対する「自己疎外」的無関心があったと思う。
ただ、セクシュアル・ハラスメントや性暴力を個人として訴える#metoo自体は好ましい変化と捉えていた。
(自分も当時やっていたTwitterで、セクハラ的風潮の強かった職場状況を共有した覚えがある)
・本作を見ながら改めて驚愕を覚えたのは、彼女が文字通り「孤軍奮闘」から「闘い」を起こしていたことである。
彼女は、家とも、家族とすら「別れ」を告げ(まさに「出家」のように「世間を離れて」)、過酷なジャーナリズム&訴訟活動へと踏み出していった。
家を貸してくれた友人たち、弁護団、メディア関係者たち、警察内部の「捜査官A」などが、彼女を初期から支援した面々であった。
それが、「実名顔出し」記者会見により、環境が大きく変わることとなる。
・それ故に、本作は、「自らを、自ら集めてきた」周辺画像を編集したもの、またプライベートドキュメントとしての色合いが濃い。
「闘い」も、「記録自体も」、「手作りで」やっている。
それが「孤軍奮闘」の意味合いである。
・メディア(いずれかと言えば伊藤支援側)が批判するのは、その部分ではないか、と個人的には推測している。
「ジャーナリストとして」なのか、「被害者・サバイバーとして」の訴えなのか、判別がつかない、という。
そこには、「支援メディアからの資料の無断使用」といった「実際的」側面もあるらしい。
これをどう考えるか、である。
・自分は、このメディアによる批判は(理解できなくはないが)「本質を外している」と感じている。
つまり、基本的には、「噛み合わない」会見では「伊藤さん側に、(理がある、というより)『情理が向かうべき』」と考えるのである。
・どのような意味合いか?
重要なのは、この「元の事件(暴行事件)」は、「彼女のキャリアの駆け出し」のステップに起きた、ということである。
彼女の特異性は、「自らの事件」それ自体を通じて、「ジャーナリストとして歩みを進めた」(彼女の「就職に関する相談」の流れの中に、当該暴行事件が生じていた)。
これは批判などではなく、「事実」である。
・ポイントになるのは、彼女のジャーナリズムの「手法」に、「彼女自身(のサバイバーとしての実存と体験、その訴え)」が「不可分」のものとして「融合」している。
恐らく、その事象自体に、既存メディア側は「困惑」を覚えたことは想像に難くない。
・では、なぜ自分は、メディア側でなく、伊藤さん側に「情理を向けるべき」という独特の立場を取るか?
簡単なことで、「作品を世に出すこそ、最大の意義」(という伊藤さんの大義)は、「メディア内部のルールや仁義」に優先されるのは「有り」(ジャーナリズムというより、「運動性」優位の前提だが)と捉えていることが第一。
・第二に、上述の事情があるから、「ジャーナリストとしてなのか、サバイバーとしてなのか?」という「問いかけ」自身に、やはり(「当事者」から離れているが故の)「暴力性」を感じざるを得ない。
「だから何をして訴えてもいい」とは、当人も考えてないだろう(実際の事情は当然知らない)が、要は(何を載せ、誰に配慮すべきかの)「優先順位」の問題で、仮にそれまで協力した関係者も、「メディア仁義やルールに反する」というなら、単にそれを彼女に直接注意するなり、それを理由に今後は非協力なり付き合わなくなればいいだけの話、に見える。
・「誹謗中傷」が「女性から」寄せられていたシーンが印象的だった。
「恥を知れ」とか、「アイドル気取りで」とか。
・珍しく、「これが『正義』というものなのか」と実感を得る瞬間があった。
件の事件が起きたホテルのドアマンは、最初ホテルから口止めされたものの、のち民事訴訟で証言に立つことを申し出、伊藤さんがその意思確認を電話でした際、「この社会環境は変わらなくてはならない。職場から何を言われようが関係ない」と力強く「応答」したことだ。
・自分が「男性当事者として」感じたのはどういうことか?
加害者側の暴行に至るシーンが公にされてしまう、あれほど「恥ずかしい」ものはない。
「その人の全て」がそこに「露わになってしまう」のだから。
尤も、「持てる権力に鈍麻」してる当人は、そうした「恥ずかしさ」というものはないかもしれないが。
・日本の司法そのものの課題。
近年は、日本の検察の「不起訴連発」も広く知られつつある。
「刑事司法」(警察、検察、裁判所、拘置所・刑務所に至るまで)がいかに「歪んだ」存在かも。
「性犯罪・性暴力」面は、その「最深部」ではあるものの、またその「一環」に過ぎない。
・本作は、彼女が「自らを語る」際に「英語で」語っているシーンが占めていた。
帰国子女の彼女は、英語が非常に堪能で、日本ではなかなかメディアでの公的な訴えができない中、海外で先行してドキュメンタリーが公開されるなど、粘り強く活動を続けていたことがわかる。
この「海外チャネル」の開拓無くして、今日は絶対にあり得なかった。
余儀ないものだったかもしれないが、強力な戦術であり戦略となったと言える。
公開だけでなく、配信されて、広く観られるべき作品なのは言うまでもない。
一方、「性暴力」というのは、無縁な人には「近くて遠い」問題に留まるのも事実だ。
今回は、「正義」という概念について考えた。
「性暴力」は「被害者と、その環境の全て」を破壊する性質を持っている。
「反転して」というのではないが、「人権」概念を「突き通す」ためには、「組織を丸ごと破壊」することすら躊躇う必要はない、と考える。
「何かを押し潰して、本来守るべき『人権』を抑圧」するような組織は、そもそも何らかの「無理な歪み」が存在している筈だ。
無論、それは「社会の歪み」自体と直結するものでもある。
「世間」もまた、「人権」は「抑圧」する方向へと、常に動こうとする。
そもそも、知らず知らずのうちに、自らはそこに何らかの「加担」をしていないか?
家族に「伊藤詩織さんがいたら」、やはり「訴訟や実名顔出し記者会見は思い止まって」と言うのではないか?
「世間と闘う」には、「何かは犠牲に」せねばならぬ。
いくら「自分(たち)は『被害者』なのにおかしい」と感じても、それが「現実」である。
「正義を守る」「人権を守る」は、「美辞麗句」ではない。
文字通り、「命と生活を削って」捧げねばならない。
それができない限りは、「加害者=世間」側に属する選択肢以外にないのである。