セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

気の毒だった「ダシのダシ」

(何も具体的なことが書けず、非常に抽象的な体験談に終始しています。読むことはあまり推奨しません。いずれかと言えば記録目的のため?)

昨日は、妙に面白いことがあった。

とある案件絡みだったのだが、プレゼン?めいた約束のある直前に、「横槍」(?)が入ったのである。

「横槍」といっても、別にそう不益なものでなく、取りようによっては「助け舟」になったかもしれないのだが。

その「横槍」を入れた人には固有の目的があったものの、折悪しく叶えられることはなかった。

しかし、皮肉にもその「横槍」がきっかけで、プレゼン?直前に、「全然別の方向性」を着想してしまったのである。

そうすると、ここまで練り上げてきた内容にかなりの根本転換が必要になるのか。

結論から言えば、そこまででもない「微修正」に留まった。

が、「多少は考慮可能な」アイデアを刺激したのもまた事実であった。

 

その「横槍」を入れた人の気の毒と道化ぶりには、失笑を禁じ得なかった。

その人がタイミングを得なかったのは、様々なディスコミュニケーションの積み重なりによるものだった。

その「横槍」は、結局単に内々のものに収まってしまい、恐らく何かにはならないだろう、という気はしている。

ただ単に、(確固たるアイデアというより)きっかけ、あるいはインスピレーションをもたらした、まさに「ダシのダシ」として利用されるに終始してしまったのである。

 

しかし、社会や人生の「機」というのは、本来そのようなものでしかないのではないか、という気もしている。

「運」は自ら引き寄せるべきものだが、そもそもそれが希薄だったに過ぎない。

しかしそうすると、「大きな流れ」からは淘汰されてしまう。

全貌が見えたわけでもないし、それはまたさしたる意味はないと思うが、「運と機の引き寄せ」が「生存競争」の決め手にもなると、非常に身近に、そして具に観察できた興味深い機会だった。

仕事をサボって「寄り添う」メディアと政治屋

最近やたら耳障りになってきたよく聞くフレーズは、「被害者に寄り添って」の類いの「寄り添う」という謎動詞だ。

どうも、メディアやら政治家が口にする印象が強い。

「誰もお前らに『寄り添え』とか頼んでないわ。そんなことより早よやるべき仕事せい」ということになる。

そう、要は、「やるべき仕事に正面から取り組んでない、見つめられない」状況から批判や注意をかわす、最近最も流行りで人気の、「もっともらしいその場限りの言抜け」として活用されているのだ。

 

そもそも、そんな「寄り添う」などというのは、あまりに主観的で感傷的過ぎる単語なのもキモいと思う根源だし、権力者が弱者に使っているのは趣味の悪い冗談としか思えない。

そんなその場限りの言抜けよりは、「関係機関に連絡して、適切な処置を取らせている」という「官僚的」言明の方が「ウソがない」(実際にはウソかもしれないが)分まだマシではないのか。

あるいは、そうした必要適切な行動すらしない、したくない、ということかもしれないが。

 

もし、視聴者や有権者が、そうした口先の「寄り添う」という言葉に「うんうん、偉い偉い」などと「納得」しているとするなら、それこそ「主観的、情緒的過ぎる」というべきか、あるいは「何もできないけど気の毒な人々に『同情』はしたい」という気持ちをその連中は「代弁」、あるいは「掬い取っている」面があるのかもしれない。

公的なポジションの人物の「寄り添う」は、「社会にも被害者にも弱者にも、1ミリの価値も前身ももたらさない」。

「無能で無意味な、無為の時間稼ぎ」でしかないと断言しておこう。

 

 

 

 

「おじさんの詰め合わせ」ってセンスしか感じないんだが

トラウデンの自民党総裁選ポスターに関する発言は、正直センスしか感じなかったが、炎上していると聞いて失笑。

自分もポスターを見て、全く同じことしか感じなかった。

 

この発言を非難しようとする地平に、日本社会の「民度」(主にジェンダー目線)が端的に反映されているとみて良いだろう。

いわゆる「識者」(?)の一部まで、この非難に同調している向きはかなりキツイ。

その人らも自分も、同じ「おっさん」でしかない訳だが。

 

トラウデン直美、自民党総裁選ポスターに「おじさんの詰め合わせ」 SNSで議論噴出「こりゃひどい」「男性差別ではない」(オリコン) - Yahoo!ニュース

 

当ブログでも、同様の記事を以前に書いてある。

【プロレス】日本政治史=「ジイさん民主主義」の成り立ちw - セルフケアと「男性」性

 

最近は、メディア報道で映される諸会議も、まず「男女比」「年齢階層比」からしか見ないクセがついている。

その件についても、いずれ書きたい。

 

 

「愛する」=「自分と、生活を大切にし続けようとする意志」?

当ブログには珍しく、ポエムというか、やや感傷的なニュアンスの記事となるかもしれないがご容赦願いたい。

 

こないだ、ある若い女性と話す機会があったのだが、その女性は、カップルでかなり厳しい経済環境にあるにもかかわらず、パートナーの男性を愛し生活を共にしようという意思を明確に語っていたことがあり、感動というか羨ましさというか、眩しさを感じたのだ。

そこで、少し「愛する」「愛する人のいる」意味について考えた。

 

自分は、「愛される」のが嫌いだ。

「重い、受け止められない」ということもあるが、「自分を大切にしてない・したくない」も少しはある。

しかし、(当ブログのタイトルにある)「セルフケア」は拘っている。

となると、この矛盾は何か。

「自分で自分を愛する」ことと、「人が自分を愛する」ことの違いと端的に整理して良いだろう。

 

結局のところ、「人を愛する」怖さというのは、「世の中=人間社会を究極的に信じていない・信じられない」と整理して良かろう。

愛する人と生活を作っていく」のは、「世、社会の中で生活を作っていく」ことに他ならない。

つまり、「愛の先」というものを、どうしても「実際的に」信頼できないのだ。

 

が、ここには、どうも論理的倒錯があるような気もする。

肝心の、「愛する人」と、「その人に注ぐ愛」というものがスポッと抜けているのだ。

自分が信じていないのは「生活(暮らし)」「世の中」であり、(いないがいたとして)「愛する人」「その人に注ぐ愛」ではない。

つまり、「愛する人がいて、愛したとして…」という「仮定の先」を、「頭で考えた結論」により排除しているのだ。

 

以前、自分は、女性の婚活ブログを読むのにハマっていたことがあって、その中で、「条件で選ぼうとすることでドツボにハマっていく」婚活女性を冷笑していたことがある。

しかし、上のスタンスは、何かその女性に似ている部分を感じざるを得ない。

早い話が、「外部環境・外部条件」に囚われているのだ。

 

もう一つ考えるべき要素がある。「自分」だ。

端的に言うなら「自信がない」ということだろう。

というより、それらは「串刺し」にできることだ。

「世界への見通しの明確化」と「自信」とはセットになる。

 

自分は「願掛け」のような発想は好きではない。

まるで女性を「道具」視しているようだということと、「それは愛と関係なくないか?」という混同視への違和感がある。

が、今の自分を省みれば同じ状況と言わざるを得ない。

(別に対象となる相手がいるわけではないが、「愛の疎外」という観点において)

 

「今という瞬間瞬間の大切にしたいその仕方」において、「人との歩み」が必要かつその意思があるか。

「愛したい」「愛する人を求める」というのは、その部分であろう。

 

「頭で考えて出している結論」ではあるが、「愛」にはやはり「気持ち」も「時間」も取られてしまう。

それはどうしても困る、というのが現状だ。

しかし、「揺らぎがある」のは、「少し余裕の出てきた証」でもある。

恐らく、2年ほどはまだ様子を見るだろうが、微妙に気持ちが変化しそうな予感、というよりそうしたレンジは自分に持たせておきたい。

 

「(客観的)自信はない」が、「自分自身のことは、自分内部でかなりケアをし、それ故に余裕が出つつある」状況と言えるだろう。

うるさい「結果厨・プレゼン厨」競争から「降りて良かった」

何年か前は、「自分は逃げたのか?」という敗北感や罪悪感めいたものに支配されていた時期もあった気がするのだが、今となっては違った捉え方に転じたようだ。

「結果厨・プレゼン厨」の社会とか競争の方に問題があるわけで、どうしても一度、自分をそこから突き放さなくてはその問題性が見えてこなかったのだ。

 

「結果を出す」ことを求められること自体に問題があるわけではない。

仕事である以上は当然のことだ。

その求められる時間スパンや権力構造に問題はないのか、そこにどのような社会経済・政治構造が潜んでいるのか、また問題があるとすればどう変えられるのか、といったところに焦点が向けられるのだ。

 

「プレゼン厨」には、学生時代から辟易していた。

「よくこんな中身のないプレゼンを、格好だけ付けられるな」と当時はどれほど冷笑していたか。笑

この言い方は嫌いだが、当時は「時代の限界」があったのは間違いない。

技術やビジネスモデル面での選択肢が乏し過ぎた。

といって、当時の自分もまた、他の解を持ち合わせていた訳でもなかった。

次第に「殻に閉じこもる」、あるいは単に沈黙し、自らは何も発言も発信もしようとしなくなったのは、やたらプレゼンばかり求められる「プレゼン厨、プレゼン搾取社会」に閉口し、自分の生活ペースや知的世界を守ろうとしたからである。

 

上述の通り、「結果を出す」こと自体は重要だと思っているが、「どうでも良い結果」を出して人に知られたい訳ではない。

この辺りは個人の価値観・美学の問題になってはくるのだが。

世阿弥の「秘すれば花」を守ろうと考えたのだ。

 

自分自身、結果もプレゼンも大事だし、重視もしている。

が、それを要求してくるアクターの「求め方」を注意深く凝視するスタンス、と言って良いだろう。

おかしな「結果厨」「プレゼン厨」がいた場合、その姿勢の背後に何があるのか。

その「正体」を見極めに行く、その習慣が身についたのだ。

 

(幻想でなく)「社会フェイク・プロパガンダ」のサザエ【国民的アニメ】

日本には、「国民的アニメ」と言われる、長い「歴史と伝統」を持つアニメシリーズがいくつもある。

うち、「日本社会に即した家族団らん」を描いたものとして、サザエさんちびまる子ちゃんドラえもんクレヨンしんちゃんなどが挙げられる。

 

子ども時代は見ていたことがあるが、「原作者の死後も、プロダクションから永遠再生産され続ける胡散臭さ」に気づいて見なくなっていった覚えがある。

現在では、それらアニメの「ファンタジー(幻想)」としての性質は、誰もが認識するに至ったのではないか。

 

だが自分は、さらに踏み込んで、この手の「国民的アニメ」というのは、「社会フェイク(=偽物の社会のあり様)」を、意識無意識に垂れ流す「プロパガンダ(政治社会的宣伝)」と見なすべきだ、と考えるようになっている。

このプロパガンダは、いくつかのたちの悪い性質に支えられている。

その基幹となるのは、言うまでもなく、「市場ニーズ」である。

プロパガンダ」といっても、「政府」からの「要請」を受けて行っているものではない(確証はないが笑)。

「大衆の強いニーズ」がなければ、いかに「歴史と伝統あるアニメ」であったとしても、苛烈な競争のアニメ業界では淘汰されざるを得ない。

(だからそこでは、「(ニーズを支える)コンテンツ再生産構造」が支える限り、上述の「原作者生存の有無」は問題とはならないのだ)

 

自分が問題視しているのは、そのニーズの中に、「日本社会は変わってない、変わったあり様は描いて欲しくない」という、「不変への固執バイアス」のような、非常に強い「大衆の社会的偏執」が反映されているのではないか、と捉えている点だ。

例えば、現代の日本社会では、インフレの物価高、少子化と子育て環境の過酷といったリアルな現状が描かれるが、そうした「リアルの描写」を、それら「国民的アニメ」で描写して欲しいと思う人間はいないだろう。

というより、単にエンタメだけでなく、「現実逃避」に視聴の大きな目的があるし、また大人(親)の側も、「子どもに見せても安心、あるいは人畜無害」であるものを見せたい、見せても良いと感じている筈だ。

アニメ内で、「社会の現実にギスギス」している主人公や登場人物など描いて欲しくもなければ、見たくもないというものだ。

 

が、そうなった場合、「幻想(ファンタジー)」、あるいはこれほど年月が長く、また広く根強くなると、「社会フェイク(偽物の社会描写)」として捉えるべきではないか、と思える。

特に、日本アニメは、配信やyoutubeなどを通じて海外への影響力も強く、それを通じて日本文化や社会への関心を惹起している点でも無視できない。

 

「市場(視聴者)ニーズがある限りは仕方ない」と言い切っていいものだろうか。

「大衆プロパガンダ(の伝える嘘=フェイク)」という点では、単に政治サイド主導ではないというだけで、その歪んだ影響力というのは、権威主義国家のそれと別段変わらないし、「大衆が自ら望み、創り出している」だけ、よりたちが悪いように思える。

 

元来、無論「プロパガンダ」目的で制作されている訳でないのは言うまでもない。

「日本社会の衰退・地盤沈下」と、「その現実を直視したくない」という大衆の欲求が、それら「国民的アニメ」を「プロパガンダ」たらしめている、ということなのだ。

 

「男性によるケア」不満の女性は、「人材・体制不足」にも発言・コミットせよ

最近は、ブログで、「男性ケア労働者に現場でケアされたことへの不満」を語る女性と、他方でそれを受けてさらにその女性たちへの不満(や怨嗟?)を語る男性(いわゆる「弱者男性」層とみられる)たちの記事というのをしばしば見かけるようになった。

「不毛だな」と思いつつ、失笑している。

 

結論から言えば、現代においては、女性ユーザーの不満に妥当性があるし、そちらに対応せざるを得ない、となる。

が、「その不満だけ垂れ流していればいいわけじゃない筈でしょ?」というツッコミもせざるを得ない。

 

「女医」「女性のケア労働専門職」を、各科目とか地域で満遍なく増やそうとしても、それは容易ではない。

また同様に、各領域の「男性ケア労働者」を増やそうとしても、それまた同様である。

「ケア労働現場は3K労働」だと周知となり、そこらじゅうで人材不足に陥っているのは周知だ。

そして、背景には医療介護費削減を至上命題とする国の財源不足があることも。

 

ハラスメント的人材や環境があるとすればそれは問題外であるとして、ではその人材不足との兼ね合いをどう捉える?という話なのだ。

学校・教育現場と教員不足の問題と、ほぼ同様に捉えられていくようになるのではなかろうか。

「男性によるケア」を忌避する女性ユーザーがいるとすれば、その体制やケアが充実した環境を提供するケア機関を受診するよりない、となる。

 

財政や、人材・体制不足以外に、ガイドラインや評価指標・手法(機関や体制、その人材に対する)、監督が不足しているのもまた事実だ。

ただ他方で、そうしたものを強化すれば、「じゃあもういいわ」とケア労働そのものから人材が逃げていく流れとなるのも間違いない。

そうであるとすれば、今後はどういう人がケアを担当する・目指すことになるのか。

学校教員の世界が、「デモシカ先生」とかつて言われたように、劣化した質の人しか目指さなくなる(既にそうなりつつあるが)だろう。

 

「男性ケア労働者に現場でケアされたことへの不満」を語るのはいい。

しかし、その近視眼だけでいい筈はない。

「今、なぜそうなのか?」という現象の深層部分に目を向け、理解した上で、「その先」の構造的問題やその解決策についても、発言や取組を深化させにいって欲しい、と願うばかりだ。