文春の仕掛けにより、突如、松本は事実上の「退場」を迫られるに至っている。
今後は裁判闘争が見込まれるものの、どのような見通しとなっていくかは、事実関係解明の進捗とともに、今後の展開次第だろう。
事実関係自体が最重要なのは当然だが、(現状ではその解明が開始されたばかりの段階でもあり)本稿では、それを云々することが目的ではない。
今回の騒動は、(先の「闇営業騒動」に次いでの)「芸能史上の重大な政治事件」になっていく(既に「なっている」か)筈だ。
自分の(「政治」上の)注目点としては、
・(事実関係やその解明含めた)松本自身の「ケジメ」のつけ方
・吉本は、いつまで松本に「伴走」していくのか
・今後の芸能界・お笑い界の、松本への距離の取り方
・政治関係=芸能秩序がどうなるのか
・コンテンツとお笑いの趨勢の行方
etc.
自分は「お笑い」自体はかなり好きなほうだと自認している。
が、子ども時代から、「松本」的笑いには全くといって良いほどハマることがなかった。
周囲では当然見る人が多いから見ようとしたことは一度ならずあるが、興味はついぞ持てなかった。
(理由は単純で、「(その提供する芸や笑いが)無教養だから」に尽きるだろう)
無論、彼の芸能や笑いへの功績や実力そのものも、彼を崇拝する芸人や、その人々により構成されるお笑い業界の構造というものも、十分に認識している。
しかし、それが故にこそ、特に2010年代は、テレビからもお笑いからも、全く離れた時期があった。
「内輪向け笑いやそのノリ」に我慢できず、正視に堪えなかったからだ。
そして、その(各種ハラスメント込みの)ホモソーシャルな構造(人間関係とコンテンツ双方)に無反省な芸能界・メディア界への嫌悪が抜きがたかったからである。
(自分が「お笑い好き」に「復帰」したのは、逆説的なことに、「闇営業騒動」と、ほぼコロナ禍に平仄を合わせた「芸人youtuber」ブーム以降のことだが、それについては本筋から逸れるので措いておく)
アイコンとしての松本の多面的巨大さを認識しているからこそ、今後の芸能界・お笑いの秩序と、またコンテンツ(やその制作過程)そのものがどのように変貌していくかに注目せざるを得ない。
松本の存在しない吉本、またはお笑い界というのは、「中心を失った世界・業界」、いわばアナーキーな状況となっていくと考えざるを得ない。
その「穴埋め」というのは不可能とみている。
(例えとして妥当か分からないが、「安倍死亡後の(旧)安倍派」のように、秩序そのものは、「集団指導体制」へと移行していくだろう)
問題の一つは、松本の事実上の「退場」により、今後の「お笑い(の芸)」の中身自体の最大「評価軸」そのものが、スポンと抜けることだろう。
「誰が、どう決めるのか」という、最大の権威、その拠り所を喪うことになる。
(松本が大小関与してきた、各種「賞レース」自体も、「松本の不在」による「締まりのなさ」が露呈され、存在意義、またはスタイルそのものが問われていくのではなかろうか)
今後、一体どうなっていくのか。
今後の秩序のあり方とともに、コンテンツ制作自体も手探りになっていくことが想定される。
次に、松本の構築した、ホモソーシャルな男性芸人支配のお笑い芸人秩序の行方である。
もっとも、「ホモソーシャル」なのは、「松本が作った」訳ではなく、メディア界・芸能界そのものの病巣であり、松本はむしろその(特にお笑い界・吉本における)最大の「象徴」であり「顔」だったに過ぎない、と見るべきだろう。
筆者の見るに、「松本騒動」は端緒に過ぎず、ハラスメントのニュアンスを遺した芸能人やメディア関係者は、今後も続々と同様の事件や告発により「退場」を迫られ、芸能界・メディア界の「クリーンナップ」が急速に進んでいくことになるのではなかろうか。
あるいは、今回の騒動を契機として、既に進行している「若手・中堅芸人」シフトに、一挙に雪崩れ込んでいくだろうか。
そうなると、「若手・中堅芸人」と、(いわば「松本系」残党としての)「年輩芸人」との力関係がどう推移していくか、ということになる。
それは、「視聴者間の代理戦争」の色彩を帯びていくだろう。
「昭和-平成型」のお笑いを依然として存続させていくのか、「令和型」のお笑いのスタイルを開拓していくのか。
ただ、保守的な日本社会、そして視聴者は、「簡単には変わってほしくない」というスタンスが少なくないのではないだろうか。
また、大衆に広く支持される、新しい芸やコンテンツを生み出しヒットさせるのは容易ではないし、今はメディア構造そのものがそれを生まれにくくしてもいる。
自分は、(松本支持者やネタ至上主義者のような)いわば「偏狭なお笑いファン」とは絶対に共有できないところだろうが、こうした「一大叙事詩としてのお笑いの変貌、その歴史」そのものが、最大の愉楽の根源と捉えている。
松本には、事実関係解明も含めた、しっかりした「ケジメ」をつけて欲しい。
が、現状では、個人的にはそれに対して悲観的見解を持っている。
「生命や実存にかかわるような深刻なハラスメント」は、決して「笑い」にはできない。
その訴訟の場もそうだ。
そして、「松本」的笑いや芸は、その「理解そのものを拒否」したところに成り立っている気がしてならない。
成り立つとすれば、「宮迫-亮の共同記者会見」以上のものがあるか、だ。
が、それは不可能と考えざるを得ない。なぜか。
松本自身が「加害者」として「告発」されているからだ。
彼は、どこまでも「王様」の立場でしか振舞い得ない。
(その観点で、「会社からの(事実解明への)抑圧」を告発することで、世間を部分的に味方につけられた宮迫-亮とは対照的と言える)
むしろ、類推すべきは、急速に消えていくことになった旧「ジャニーズ事務所」の像であろう。
事実関係解明が進んでいったら、「日本版#metoo」が、芸能界・お笑い界に再来し、それとともに、「松本」的笑いも、「松本」的吉本も、急速に追放され忘却されていくのではなかろうか。
しかし、芸能界・お笑い界のホモソーシャルな既得権構造は深く分厚いが故に、その抵抗もまた強固で頑強なものであることが当然想定される。
日本のメディアそのものが、きちんと「女性の訴え」を真正面から扱う方向へと変貌できるか。
それは「エンタメ」にはなり得ない。「法」過程であり「政治」過程の一部である。
それを実現しようとする過程で、メディア業界と関係者が、どのように変貌を迫られ、どう対処し、実際に変われるのか・また変わらないのか。
そして、問われている客体は、実は、「お笑い業界」「メディア業界」ではないかもしれない。
「視聴者=大衆」「日本社会と日本文化」そのものが、その変貌への要求に応えられるか。
そうした重大な岐路に立っているのではなかろうか。