セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「おじさんの詰め合わせ」ってセンスしか感じないんだが

トラウデンの自民党総裁選ポスターに関する発言は、正直センスしか感じなかったが、炎上していると聞いて失笑。

自分もポスターを見て、全く同じことしか感じなかった。

 

この発言を非難しようとする地平に、日本社会の「民度」(主にジェンダー目線)が端的に反映されているとみて良いだろう。

いわゆる「識者」(?)の一部まで、この非難に同調している向きはかなりキツイ。

その人らも自分も、同じ「おっさん」でしかない訳だが。

 

トラウデン直美、自民党総裁選ポスターに「おじさんの詰め合わせ」 SNSで議論噴出「こりゃひどい」「男性差別ではない」(オリコン) - Yahoo!ニュース

 

当ブログでも、同様の記事を以前に書いてある。

【プロレス】日本政治史=「ジイさん民主主義」の成り立ちw - セルフケアと「男性」性

 

最近は、メディア報道で映される諸会議も、まず「男女比」「年齢階層比」からしか見ないクセがついている。

その件についても、いずれ書きたい。

 

 

「愛する」=「自分と、生活を大切にし続けようとする意志」?

当ブログには珍しく、ポエムというか、やや感傷的なニュアンスの記事となるかもしれないがご容赦願いたい。

 

こないだ、ある若い女性と話す機会があったのだが、その女性は、カップルでかなり厳しい経済環境にあるにもかかわらず、パートナーの男性を愛し生活を共にしようという意思を明確に語っていたことがあり、感動というか羨ましさというか、眩しさを感じたのだ。

そこで、少し「愛する」「愛する人のいる」意味について考えた。

 

自分は、「愛される」のが嫌いだ。

「重い、受け止められない」ということもあるが、「自分を大切にしてない・したくない」も少しはある。

しかし、(当ブログのタイトルにある)「セルフケア」は拘っている。

となると、この矛盾は何か。

「自分で自分を愛する」ことと、「人が自分を愛する」ことの違いと端的に整理して良いだろう。

 

結局のところ、「人を愛する」怖さというのは、「世の中=人間社会を究極的に信じていない・信じられない」と整理して良かろう。

愛する人と生活を作っていく」のは、「世、社会の中で生活を作っていく」ことに他ならない。

つまり、「愛の先」というものを、どうしても「実際的に」信頼できないのだ。

 

が、ここには、どうも論理的倒錯があるような気もする。

肝心の、「愛する人」と、「その人に注ぐ愛」というものがスポッと抜けているのだ。

自分が信じていないのは「生活(暮らし)」「世の中」であり、(いないがいたとして)「愛する人」「その人に注ぐ愛」ではない。

つまり、「愛する人がいて、愛したとして…」という「仮定の先」を、「頭で考えた結論」により排除しているのだ。

 

以前、自分は、女性の婚活ブログを読むのにハマっていたことがあって、その中で、「条件で選ぼうとすることでドツボにハマっていく」婚活女性を冷笑していたことがある。

しかし、上のスタンスは、何かその女性に似ている部分を感じざるを得ない。

早い話が、「外部環境・外部条件」に囚われているのだ。

 

もう一つ考えるべき要素がある。「自分」だ。

端的に言うなら「自信がない」ということだろう。

というより、それらは「串刺し」にできることだ。

「世界への見通しの明確化」と「自信」とはセットになる。

 

自分は「願掛け」のような発想は好きではない。

まるで女性を「道具」視しているようだということと、「それは愛と関係なくないか?」という混同視への違和感がある。

が、今の自分を省みれば同じ状況と言わざるを得ない。

(別に対象となる相手がいるわけではないが、「愛の疎外」という観点において)

 

「今という瞬間瞬間の大切にしたいその仕方」において、「人との歩み」が必要かつその意思があるか。

「愛したい」「愛する人を求める」というのは、その部分であろう。

 

「頭で考えて出している結論」ではあるが、「愛」にはやはり「気持ち」も「時間」も取られてしまう。

それはどうしても困る、というのが現状だ。

しかし、「揺らぎがある」のは、「少し余裕の出てきた証」でもある。

恐らく、2年ほどはまだ様子を見るだろうが、微妙に気持ちが変化しそうな予感、というよりそうしたレンジは自分に持たせておきたい。

 

「(客観的)自信はない」が、「自分自身のことは、自分内部でかなりケアをし、それ故に余裕が出つつある」状況と言えるだろう。

うるさい「結果厨・プレゼン厨」競争から「降りて良かった」

何年か前は、「自分は逃げたのか?」という敗北感や罪悪感めいたものに支配されていた時期もあった気がするのだが、今となっては違った捉え方に転じたようだ。

「結果厨・プレゼン厨」の社会とか競争の方に問題があるわけで、どうしても一度、自分をそこから突き放さなくてはその問題性が見えてこなかったのだ。

 

「結果を出す」ことを求められること自体に問題があるわけではない。

仕事である以上は当然のことだ。

その求められる時間スパンや権力構造に問題はないのか、そこにどのような社会経済・政治構造が潜んでいるのか、また問題があるとすればどう変えられるのか、といったところに焦点が向けられるのだ。

 

「プレゼン厨」には、学生時代から辟易していた。

「よくこんな中身のないプレゼンを、格好だけ付けられるな」と当時はどれほど冷笑していたか。笑

この言い方は嫌いだが、当時は「時代の限界」があったのは間違いない。

技術やビジネスモデル面での選択肢が乏し過ぎた。

といって、当時の自分もまた、他の解を持ち合わせていた訳でもなかった。

次第に「殻に閉じこもる」、あるいは単に沈黙し、自らは何も発言も発信もしようとしなくなったのは、やたらプレゼンばかり求められる「プレゼン厨、プレゼン搾取社会」に閉口し、自分の生活ペースや知的世界を守ろうとしたからである。

 

上述の通り、「結果を出す」こと自体は重要だと思っているが、「どうでも良い結果」を出して人に知られたい訳ではない。

この辺りは個人の価値観・美学の問題になってはくるのだが。

世阿弥の「秘すれば花」を守ろうと考えたのだ。

 

自分自身、結果もプレゼンも大事だし、重視もしている。

が、それを要求してくるアクターの「求め方」を注意深く凝視するスタンス、と言って良いだろう。

おかしな「結果厨」「プレゼン厨」がいた場合、その姿勢の背後に何があるのか。

その「正体」を見極めに行く、その習慣が身についたのだ。

 

(幻想でなく)「社会フェイク・プロパガンダ」のサザエ【国民的アニメ】

日本には、「国民的アニメ」と言われる、長い「歴史と伝統」を持つアニメシリーズがいくつもある。

うち、「日本社会に即した家族団らん」を描いたものとして、サザエさんちびまる子ちゃんドラえもんクレヨンしんちゃんなどが挙げられる。

 

子ども時代は見ていたことがあるが、「原作者の死後も、プロダクションから永遠再生産され続ける胡散臭さ」に気づいて見なくなっていった覚えがある。

現在では、それらアニメの「ファンタジー(幻想)」としての性質は、誰もが認識するに至ったのではないか。

 

だが自分は、さらに踏み込んで、この手の「国民的アニメ」というのは、「社会フェイク(=偽物の社会のあり様)」を、意識無意識に垂れ流す「プロパガンダ(政治社会的宣伝)」と見なすべきだ、と考えるようになっている。

このプロパガンダは、いくつかのたちの悪い性質に支えられている。

その基幹となるのは、言うまでもなく、「市場ニーズ」である。

プロパガンダ」といっても、「政府」からの「要請」を受けて行っているものではない(確証はないが笑)。

「大衆の強いニーズ」がなければ、いかに「歴史と伝統あるアニメ」であったとしても、苛烈な競争のアニメ業界では淘汰されざるを得ない。

(だからそこでは、「(ニーズを支える)コンテンツ再生産構造」が支える限り、上述の「原作者生存の有無」は問題とはならないのだ)

 

自分が問題視しているのは、そのニーズの中に、「日本社会は変わってない、変わったあり様は描いて欲しくない」という、「不変への固執バイアス」のような、非常に強い「大衆の社会的偏執」が反映されているのではないか、と捉えている点だ。

例えば、現代の日本社会では、インフレの物価高、少子化と子育て環境の過酷といったリアルな現状が描かれるが、そうした「リアルの描写」を、それら「国民的アニメ」で描写して欲しいと思う人間はいないだろう。

というより、単にエンタメだけでなく、「現実逃避」に視聴の大きな目的があるし、また大人(親)の側も、「子どもに見せても安心、あるいは人畜無害」であるものを見せたい、見せても良いと感じている筈だ。

アニメ内で、「社会の現実にギスギス」している主人公や登場人物など描いて欲しくもなければ、見たくもないというものだ。

 

が、そうなった場合、「幻想(ファンタジー)」、あるいはこれほど年月が長く、また広く根強くなると、「社会フェイク(偽物の社会描写)」として捉えるべきではないか、と思える。

特に、日本アニメは、配信やyoutubeなどを通じて海外への影響力も強く、それを通じて日本文化や社会への関心を惹起している点でも無視できない。

 

「市場(視聴者)ニーズがある限りは仕方ない」と言い切っていいものだろうか。

「大衆プロパガンダ(の伝える嘘=フェイク)」という点では、単に政治サイド主導ではないというだけで、その歪んだ影響力というのは、権威主義国家のそれと別段変わらないし、「大衆が自ら望み、創り出している」だけ、よりたちが悪いように思える。

 

元来、無論「プロパガンダ」目的で制作されている訳でないのは言うまでもない。

「日本社会の衰退・地盤沈下」と、「その現実を直視したくない」という大衆の欲求が、それら「国民的アニメ」を「プロパガンダ」たらしめている、ということなのだ。

 

「男性によるケア」不満の女性は、「人材・体制不足」にも発言・コミットせよ

最近は、ブログで、「男性ケア労働者に現場でケアされたことへの不満」を語る女性と、他方でそれを受けてさらにその女性たちへの不満(や怨嗟?)を語る男性(いわゆる「弱者男性」層とみられる)たちの記事というのをしばしば見かけるようになった。

「不毛だな」と思いつつ、失笑している。

 

結論から言えば、現代においては、女性ユーザーの不満に妥当性があるし、そちらに対応せざるを得ない、となる。

が、「その不満だけ垂れ流していればいいわけじゃない筈でしょ?」というツッコミもせざるを得ない。

 

「女医」「女性のケア労働専門職」を、各科目とか地域で満遍なく増やそうとしても、それは容易ではない。

また同様に、各領域の「男性ケア労働者」を増やそうとしても、それまた同様である。

「ケア労働現場は3K労働」だと周知となり、そこらじゅうで人材不足に陥っているのは周知だ。

そして、背景には医療介護費削減を至上命題とする国の財源不足があることも。

 

ハラスメント的人材や環境があるとすればそれは問題外であるとして、ではその人材不足との兼ね合いをどう捉える?という話なのだ。

学校・教育現場と教員不足の問題と、ほぼ同様に捉えられていくようになるのではなかろうか。

「男性によるケア」を忌避する女性ユーザーがいるとすれば、その体制やケアが充実した環境を提供するケア機関を受診するよりない、となる。

 

財政や、人材・体制不足以外に、ガイドラインや評価指標・手法(機関や体制、その人材に対する)、監督が不足しているのもまた事実だ。

ただ他方で、そうしたものを強化すれば、「じゃあもういいわ」とケア労働そのものから人材が逃げていく流れとなるのも間違いない。

そうであるとすれば、今後はどういう人がケアを担当する・目指すことになるのか。

学校教員の世界が、「デモシカ先生」とかつて言われたように、劣化した質の人しか目指さなくなる(既にそうなりつつあるが)だろう。

 

「男性ケア労働者に現場でケアされたことへの不満」を語るのはいい。

しかし、その近視眼だけでいい筈はない。

「今、なぜそうなのか?」という現象の深層部分に目を向け、理解した上で、「その先」の構造的問題やその解決策についても、発言や取組を深化させにいって欲しい、と願うばかりだ。

 

夜明けまでバス停で(2022)

(ネタバレ注意)

コロナ禍で飲食店のパート仕事を何の前触れもなく解雇され、頼る先もなくホームレスになってしまった中年女性のストーリー。

 

前々、というより公開当初から気になりながら手を付けられないまま来ていたのを、連休で時間が出来たのでようやく。

GWにふさわしからぬ、重苦しいチョイスだったかもしれないが。

 

主人公演じる板谷由夏は、別作品でも、会社のハラスメントを受ける役回りで知っていた。

コロナ禍では、「女性の自殺増」のニュースに強いショックを受けた記憶があるが、「女性ホームレス」も見えにくい社会問題として注目されていた。

 

コロナ禍の渋谷バス停・ホームレス女性殺害事件で見えた日本の現状。政策から漏れた、夫や親がいない女性に迫る貧困 コロナと女性の貧困|人間関係|婦人公論.jp

なぜ40代の女性はホームレスに?コロナで新宿の食料品配布会場に増える女性の姿 - 貧困や格差のない社会へ - NHK みんなでプラス

“女性ホームレス” から考える日本の隠れた貧困問題 | nippon.com

 

コロナ禍の若年女性の自殺増加、会話機会の喪失など要因か 横浜市立大など | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」

新型コロナ禍による10-24歳の自殺増加は女児・女性のみ顕著であることを確認 | YCU 横浜市立大学

 

リアル過ぎて見続けるのが苦しかったのだが、「家族・家庭でも、職場でも人間関係でうまくやっていけない」ことも、ホームレスになる遠因として描写されている。

そこに、コロナ禍という経済的打撃は無論だが、職場や上司のハラスメント環境という要素も絡んでいる、という構図。

追い詰められるには、重層的な構造が潜んでいるし、また主人公も、周囲にうまくSOSを出せず、ホームレスの集中する公園なども避けて、バス停で夜明かしをしている。

 

同時に、差別される「周縁」の人々、「ジャパゆきさん」とかつて呼ばれて日本に来て年齢を重ねてしまった外国人女性と同時に、「文句があるなら自分の国に帰れよ」と軽い気持ちで排外感情を口にする若者がいる。

本作がドキュメンタリー色だけでなくエンタメとしても成り立っているのは、ホームレスの集まる公園に、かつて三里塚闘争を闘い、伊勢丹前で爆破事件を起こしたという元闘志の老人が登場することだ。

新宿クリスマスツリー爆弾事件 - Wikipedia

 

ところどころで、ホームレスに厳しく排除的な「自己責任」論をほのめかす世間の風潮(youtuberの言説など)が差し挟まれ、「(ホームレスに対する)世間の目、それを意識してホームレスがどのような動きを強いられるか」が描かれている。

その中で、菅首相が「自助、共助、公助」を唱えたテレビシーンも出てきた。

 

菅首相が、あのスローガンを唱えた時に違和感を覚えた人は少なくなかろう。

ただ、自分は、こうしたスローガンには、「本当に国や行政にはもうカネがないのだ」という裏のホンネや思惑というものが、だいぶ前から透けて見えるようになった。

また、格差拡大の一方で、バラマキ以外に有効な対応策を持たない、「政策的貧困」という行き詰まりも鮮明となっている。

このような政治的行き詰まりというのは、「自己責任論×大衆の政治的無関心×近視眼」という「日本国民の自己責任」が招いたものということはできないだろうか。

 

自分は、安易な自己責任論には与しないが、「弱者は国や行政が救済すべきだ」という議論にもまた安易に賛同しようとは思わない。

将来を担う「子ども予算」一つ取っても、財源でこれほど紛糾するのだ。

老人たちが、自らの逃げ切りを図り続けてきたゆえに、今現役世代がそのツケを支払わされているのは確かだ。

その一方で、政治啓発の不足は無論の事だが、近視眼的で中長期の未来、即ち「今」の状況に対し、散々警鐘を鳴らされながらも、陰に陽に必要な諸改革を拒み続けてきたのもまた、国民であり経済社会のほうではないのか。

ここまで、「人手不足で社会経済が回らない」ということが可視化されるまで、何一つ問題認識も出来なければ、手も打てない。

これが、日本社会であり、日本人なのである。

 

片方で、ユニクロの柳井さんが語っていた「政府はお金がないのに分配ばかりしている」という発言に共感せざるを得ない。

ずっと無責任な野党根性と割り切ったうえで、共産党のような、「軍事費に回すのをやめて、福祉予算を増大させよ」という耳触りのいい発言が出来ればよいのだが。

しかし一方で、自ら血を流す改革は拒んで、税負担を強いられるたびに選挙で与党に制裁を与えるような有権者の政治感覚もまた幼稚と思わざるを得ない。

 

「世界の1%の富裕層が、世界の富の4割を占めている」ことは、広く報じられ知る人も多い筈だ。

しかし、資本主義のシステムそのものに、根本的な改編が加えられる傾向はなく、著しい行き詰まりや、(現在のGAFA対策のような)甚だしい市場の壟断が見られない限り、「世界でヨーイドン」の改革というものは困難だ。

国際協調による施策がどれほど難しいかは、気候変動・環境対策で既知の筈だ。

資本主義の効率性というものを考えると、今後も、国際協調による強い制御が加えられるというのは考えにくく、今まで同様、「小刻みに、部分的に改善を試みる」程度の部分修正路線が現実的と見るべきだろう。

 

そうである限り、本作で描かれるような、「重層的な環境に取り巻かれた弱者」の犠牲は今後も増えることはあっても減ることはあり得ない筈だ。

「道徳」教育がなぜ幅を利かせるのか・序説

以前に他垢ブログで書いた映画評「「山守親分」観の変化」や、以前書いた「なぜ日本人は「いい人・やさしさ」「美談化」に逃げるのか?」の、補完的な内容となる。

 

自分の狙いは、(現代学校教育への系譜へも連なる)「道徳」と、「儒教儒学」が、どのように日本社会や人々のものの考え方を支配しているかを抉り出したうえで排除し、近代的な(無論正確な法知識に根差した)法感覚・法意識へと植え替えるところにある。

(正確には、「仏教」的思想も支配的影響力を持ってきた(日本では「神道」も)が、ここでは便宜上、「道徳」を「儒教儒学」との関係で整理することとする)

 

最近、ある動画の講義で、「日本人て『道義的責任』が好きですよね」という指摘を社会学者の方がしていて、大いに示唆を受けたのだ。

早い話が、「法的責任を引き受けられない」ところから、「被害者に寄り添う」と称して、ナゾの「道義的責任」を引き受けるところに「逃げる」訳だ。

 

先ほどの目標を掲げておいて冒頭から結論を引っくり返すようだが、個人的には、「日本人への法感覚(リーガルマインド)の植え付け」に対しては、やや悲観的な見解を持っている。

・法知識や法過程そのものの理解の難しさ

・「リスク」という概念に対する、科学的理解の欠如

・旧態依然たる男性のホモソーシャルな政治・経済・社会・法秩序既得権を維持したいバックラッシュへの強力な衝動

 また、それゆえの、「ファクト解明・報道」への隠蔽・改竄圧力

・(法を支える)「論理(あるいは理屈)」そのものへの拒否感

・そもそもの大衆の政治・法嫌い

etc.

 

なぜ引っくり返すかというと、「道徳」というのは、これらの「社会や人々の法的未啓発」を、良くも悪くも補完する役割を果たしてきたからだ。

自分の独特なカルチャー観かもしれないが、「深イイ話」のようなコンテンツは、江戸期以来の「人情話」「浪花節」を継承するものとして捉えている。

(もっとたぐれば、中世以来の「仏教説話集」などもその系譜に連なるだろう)

「道徳」談義すら、やや「理屈」を含んで堅苦しくなってしまうところを、そうした「人情話」「浪花節」が、社会的に不足している部分を補っている、と捉えているのである。

 

「道徳」というものが、歴史的にまるっきりムダなものだったとは、個人的には考えない。

「貧しい経済社会」においては、イエとかムラを維持する上で、支配層にとって使いやすい効率的なツールとして機能してきたのは間違いないからだ。

しかし、その支配思想は、当然一部の階層の人々への差別や搾取を前提としている。

社会が豊かになり、そうした差別や搾取の実態が明るみに出された以上は、その支配思想そのものを葬り去って、新たなシステムを構築する必要があるのは当然のことである。

 

戦後日本の法社会というものも、決して無視できない価値を持っていると考える。

その一方で、戦前の政治経済・社会・法の歪みを是正しないまま引き継いだ部分も非常に大きいために、混乱・衝突と追放が生じているのだと思う。

拍車をかけているのは、日本が「没落」傾向に入っていることだ。

パイが限られていることが可視化されているからこそ、「奪い合い」の部分で「ルールや運用をどうするか?」の抜き差しならぬ対立が生じている。

 

「法・法制度」というのは難しい一方で、「人情話」「浪花節」というのは、耳目に響きやすいつくりになっている。

今で言えば、「フェイクニュース」もそうしたつくりにかなり類似しているとも言える。

 

確かに、法・法制度の知識や論理の理解は難しい部分を含んでいる。

政治も込みにするなら、なおさら複雑になる。

さらに現代は「未来・将来の不透明性」という事情を孕み、人々や社会の不安やリスクが高まってもいる。

その中で、「どこを目指せばいいのか・目指せるのか?」は不明瞭な部分も大きい。

しかし、そうであればこそ、法や法制度は、自分とか、自分が大切にしているもの(人・財産や価値)を守るために必要な要素だ。

「難しいから」とスルーしたり忌避すれば、損をするのは自分自身なのだ。

その決定や評価のプロセスに自分が参加していなければ、ルールは「他の誰か」に作られたり運用されたりしてしまうことになるからである。

 

辛辣すぎる見方になるかもしれないが、「道徳」とか「人情話」というのは、「発信・制作システムの整備された、フェイクニュースの体系」と言ってもいいかもしれない。

ただ、(保守的な)「大衆」とか「市場」が成り立つ限りは、無視することはできない。

また、それらが、良くも悪くも「社会の安定」を支えているというプラスの効果も無視することが出来ない。

 

 

岩盤保守の強固な社会で「法感覚」をアップデートするためには、「法」だけにフィーチャーするだけでは不十分で、「文化」そのものを深層まで抉り出し、なおかつそれをなくして新しいものを作りだす、重層的な作業が必要となる。

現代の社会では、そうした新しい方向への運動性やそれらによる「旧い社会や人々」のパージ、依然として「変わりたくない政治経済・社会と文化」とが混ざり合う過渡期にある。

 

リベサヨの人々には、純粋な好意から注意・警告を促しておきたいが、「道徳」が今なお果たしている役割を無視してはならない。

それらへの人々や社会のニーズをくみ上げた上で、なおかつ新たなものを提供できなくては、社会のアップデートは成功しないのである。