日本には、「国民的アニメ」と言われる、長い「歴史と伝統」を持つアニメシリーズがいくつもある。
うち、「日本社会に即した家族団らん」を描いたものとして、サザエさん、ちびまる子ちゃん、ドラえもん、クレヨンしんちゃんなどが挙げられる。
子ども時代は見ていたことがあるが、「原作者の死後も、プロダクションから永遠再生産され続ける胡散臭さ」に気づいて見なくなっていった覚えがある。
現在では、それらアニメの「ファンタジー(幻想)」としての性質は、誰もが認識するに至ったのではないか。
だが自分は、さらに踏み込んで、この手の「国民的アニメ」というのは、「社会フェイク(=偽物の社会のあり様)」を、意識無意識に垂れ流す「プロパガンダ(政治社会的宣伝)」と見なすべきだ、と考えるようになっている。
このプロパガンダは、いくつかのたちの悪い性質に支えられている。
その基幹となるのは、言うまでもなく、「市場ニーズ」である。
「プロパガンダ」といっても、「政府」からの「要請」を受けて行っているものではない(確証はないが笑)。
「大衆の強いニーズ」がなければ、いかに「歴史と伝統あるアニメ」であったとしても、苛烈な競争のアニメ業界では淘汰されざるを得ない。
(だからそこでは、「(ニーズを支える)コンテンツ再生産構造」が支える限り、上述の「原作者生存の有無」は問題とはならないのだ)
自分が問題視しているのは、そのニーズの中に、「日本社会は変わってない、変わったあり様は描いて欲しくない」という、「不変への固執バイアス」のような、非常に強い「大衆の社会的偏執」が反映されているのではないか、と捉えている点だ。
例えば、現代の日本社会では、インフレの物価高、少子化と子育て環境の過酷といったリアルな現状が描かれるが、そうした「リアルの描写」を、それら「国民的アニメ」で描写して欲しいと思う人間はいないだろう。
というより、単にエンタメだけでなく、「現実逃避」に視聴の大きな目的があるし、また大人(親)の側も、「子どもに見せても安心、あるいは人畜無害」であるものを見せたい、見せても良いと感じている筈だ。
アニメ内で、「社会の現実にギスギス」している主人公や登場人物など描いて欲しくもなければ、見たくもないというものだ。
が、そうなった場合、「幻想(ファンタジー)」、あるいはこれほど年月が長く、また広く根強くなると、「社会フェイク(偽物の社会描写)」として捉えるべきではないか、と思える。
特に、日本アニメは、配信やyoutubeなどを通じて海外への影響力も強く、それを通じて日本文化や社会への関心を惹起している点でも無視できない。
「市場(視聴者)ニーズがある限りは仕方ない」と言い切っていいものだろうか。
「大衆プロパガンダ(の伝える嘘=フェイク)」という点では、単に政治サイド主導ではないというだけで、その歪んだ影響力というのは、権威主義国家のそれと別段変わらないし、「大衆が自ら望み、創り出している」だけ、よりたちが悪いように思える。
元来、無論「プロパガンダ」目的で制作されている訳でないのは言うまでもない。
「日本社会の衰退・地盤沈下」と、「その現実を直視したくない」という大衆の欲求が、それら「国民的アニメ」を「プロパガンダ」たらしめている、ということなのだ。