セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

なぜ日本人は「いい人・やさしさ」「美談化」に逃げるのか?

このテーマを掲げておいて矛盾するが、自分はこの「国民性」への「憎悪」(感情)が強すぎ、冷静に論じ切ることが出来ない。

そこは所詮「科学者」にはなり切れない個人的気質的限界ともとれるし、自身も「情緒」に流されることに甘える「日本人」に型取られてしまっているともとれる。

しかし、動機が「憎悪」でも構わないし、それ故にこそ(生きた血の流れる「人間」としては)「本物」と見なすこともできるだろう。

 

「美談化」に逃げる国民性を「壊滅」(できなくとも「激減」)させ、「データ・ファクト・ロジック」に基づき事象を判断できる民と社会へと造り変える。

それが自分の目標である。

 

なぜ日本人は、事象・人を判断し論じる際に、「いい人」「やさしさ」と捉える地平で「思考停止」したり、「美談」化してしまうところに逃げるのか?

またそうしたコンテンツを好むか?

いくつかの有力な要因を挙げられるが、相互に絡まり合っており、解きほぐすのは簡単ではない。

(もっとも、下記の説明もまた、所詮「トートロジー」に過ぎぬかもしれないのだが)

 

ここでは、主に2つに大別して論じる。

1文化(的伝統)、大衆ニーズ、「観客民主主義」と「お上随従主義」

 ここでは便宜的に、「美談」=「イイ話」

 =「困っている人や難しい状況をすくった、『いい人』またはその『やさしさ』」を美化して称える話、と定義づけておこう。

 

 一つには、そのようなコンテンツに「大衆的ニーズ」があるとしか言えない。

 これは正確な歴史的検証がなされるべきだが、主に、江戸時代からの文化的伝統によるものではないかと推測している。

 すなわち、人情話とか講談的伝統の上に、現代日本の大衆コンテンツも立っている、と捉えるわけだ。

 そこには一定の(「泣かせ」「感動」の)「型」があるわけで、コンテンツ制作側も「再生産」しやすいという事情もある。

 

 そして、そこには、「自分たちは、あくまで『お客様(=支配される客体)』として、(誰かの作り出す)コンテンツを一方的に消費する・していればいい」という「観客民主主義」との共犯関係があると考えている。

 

 どういうことか。

 「困っている人」「難しい状況」があった場合に、その社会的背景を捉えたり、その問題性を考え処置する、といった対応法ではなく、「その場・その人をどうすくうか」という「一時点」のみに「局所化」してしまう。

 そうすれば、「Aという状況がありBが困っていましたが、Cという人が現れてDという機転を利かせて解決して大団円となりました、めでたしめでたし」という「型」が可能になる。

 その「物語(美談)」は、「聴衆(大衆)」の「泣き(感動)」を引き出す、(ドラマや映画のような)一時的コンテンツとしての消費が可能になる訳だ。

 

 困っている人や事象が存在したとして、それを「社会とか社会現象の中で、自分と関係付けて捉える」ということではなく、「人が救われる親切談」として消費したい。

 政治的・社会的な「主体性」ではなく、あくまで「コンテンツの消費者」としての「客体性」が看取される、と考えるわけだ。

 

2教育的限界、「考える」トレーニングがなされずその習慣がないこと

 困っている人や事象が存在したとして、それを「社会とか社会現象の中で、自分と関係付けて捉える」という習慣、そもそもそうしたトレーニングそのものが社会に欠如している。

 (あるいは「自己責任」として非難したり虐める「型」は身につけているかもしれないが)

 

 一口に、「社会とか社会現象の中で、自分と関係付けて捉える」というが、これはなかなか大変なことだ。

 「自己責任」論とか、「美談」化というのは、「考えなくて済む」ラクな手法だ。

 いったん「考え」始めたら、余計なことまで知ったり、行動する必要まで出てしまうかもしれない。

 そうしたことは、「エラい人」(役人や政治家、学者?)の役割で自分は一介の「消費者」として、一方的に生産されるコンテンツを享受する立場であり続けたい。

 

 何より、「考える」というトレーニングそのものが欠如、不足していはしないか。

 大人、社会、教育の側自体が、「考える」ことを教えてない、というより多くは、自分たちも「考える方法や手立て」を知らないのではないのか。

 (いわゆる「ゆとり教育」は、間違いなくそうした社会状況を改善した部分があり、その分若者のほうが大人より冷静な思考力・観察力を養えている、とも個人的に見ているのだが)

 陰謀論に与したくはないが、GHQなり戦後政治・行政なりが、「考える力=政治的社会的批判能力」を奪って民の力を弱めて既得権益を守るように仕向けよう、という意図も何がしかは含まれていた、という仮説も成り立つだろう。 

 

 

上のように論じたが、当の「日本人=コンテンツ消費者」は、「美談」に「逃げている」つもりは別にないだろう。

そうした「消費者」のあり方自体が、法的・倫理的に「悪」というわけではなく、それだけで誰かから社会的に非難されるいわれもない、と考えても不思議はない。

しかし、産業構造×教育不足の共犯関係により、「政治・社会的に事象を捉えず、情緒処理に留める」コンテンツ消費者が再生産される構造を押し止めることは容易ではない。

微力であっても、ここに「くさび」を打ち、文化と教育自体の流れを変えたいと思っているのだ。