以前に他垢ブログで書いた映画評「「山守親分」観の変化」や、以前書いた「なぜ日本人は「いい人・やさしさ」「美談化」に逃げるのか?」の、補完的な内容となる。
自分の狙いは、(現代学校教育への系譜へも連なる)「道徳」と、「儒教・儒学」が、どのように日本社会や人々のものの考え方を支配しているかを抉り出したうえで排除し、近代的な(無論正確な法知識に根差した)法感覚・法意識へと植え替えるところにある。
(正確には、「仏教」的思想も支配的影響力を持ってきた(日本では「神道」も)が、ここでは便宜上、「道徳」を「儒教・儒学」との関係で整理することとする)
最近、ある動画の講義で、「日本人て『道義的責任』が好きですよね」という指摘を社会学者の方がしていて、大いに示唆を受けたのだ。
早い話が、「法的責任を引き受けられない」ところから、「被害者に寄り添う」と称して、ナゾの「道義的責任」を引き受けるところに「逃げる」訳だ。
先ほどの目標を掲げておいて冒頭から結論を引っくり返すようだが、個人的には、「日本人への法感覚(リーガルマインド)の植え付け」に対しては、やや悲観的な見解を持っている。
・法知識や法過程そのものの理解の難しさ
・「リスク」という概念に対する、科学的理解の欠如
・旧態依然たる男性のホモソーシャルな政治・経済・社会・法秩序既得権を維持したいバックラッシュへの強力な衝動
また、それゆえの、「ファクト解明・報道」への隠蔽・改竄圧力
・(法を支える)「論理(あるいは理屈)」そのものへの拒否感
・そもそもの大衆の政治・法嫌い
etc.
なぜ引っくり返すかというと、「道徳」というのは、これらの「社会や人々の法的未啓発」を、良くも悪くも補完する役割を果たしてきたからだ。
自分の独特なカルチャー観かもしれないが、「深イイ話」のようなコンテンツは、江戸期以来の「人情話」「浪花節」を継承するものとして捉えている。
(もっとたぐれば、中世以来の「仏教説話集」などもその系譜に連なるだろう)
「道徳」談義すら、やや「理屈」を含んで堅苦しくなってしまうところを、そうした「人情話」「浪花節」が、社会的に不足している部分を補っている、と捉えているのである。
「道徳」というものが、歴史的にまるっきりムダなものだったとは、個人的には考えない。
「貧しい経済社会」においては、イエとかムラを維持する上で、支配層にとって使いやすい効率的なツールとして機能してきたのは間違いないからだ。
しかし、その支配思想は、当然一部の階層の人々への差別や搾取を前提としている。
社会が豊かになり、そうした差別や搾取の実態が明るみに出された以上は、その支配思想そのものを葬り去って、新たなシステムを構築する必要があるのは当然のことである。
戦後日本の法社会というものも、決して無視できない価値を持っていると考える。
その一方で、戦前の政治経済・社会・法の歪みを是正しないまま引き継いだ部分も非常に大きいために、混乱・衝突と追放が生じているのだと思う。
拍車をかけているのは、日本が「没落」傾向に入っていることだ。
パイが限られていることが可視化されているからこそ、「奪い合い」の部分で「ルールや運用をどうするか?」の抜き差しならぬ対立が生じている。
「法・法制度」というのは難しい一方で、「人情話」「浪花節」というのは、耳目に響きやすいつくりになっている。
今で言えば、「フェイクニュース」もそうしたつくりにかなり類似しているとも言える。
確かに、法・法制度の知識や論理の理解は難しい部分を含んでいる。
政治も込みにするなら、なおさら複雑になる。
さらに現代は「未来・将来の不透明性」という事情を孕み、人々や社会の不安やリスクが高まってもいる。
その中で、「どこを目指せばいいのか・目指せるのか?」は不明瞭な部分も大きい。
しかし、そうであればこそ、法や法制度は、自分とか、自分が大切にしているもの(人・財産や価値)を守るために必要な要素だ。
「難しいから」とスルーしたり忌避すれば、損をするのは自分自身なのだ。
その決定や評価のプロセスに自分が参加していなければ、ルールは「他の誰か」に作られたり運用されたりしてしまうことになるからである。
辛辣すぎる見方になるかもしれないが、「道徳」とか「人情話」というのは、「発信・制作システムの整備された、フェイクニュースの体系」と言ってもいいかもしれない。
ただ、(保守的な)「大衆」とか「市場」が成り立つ限りは、無視することはできない。
また、それらが、良くも悪くも「社会の安定」を支えているというプラスの効果も無視することが出来ない。
岩盤保守の強固な社会で「法感覚」をアップデートするためには、「法」だけにフィーチャーするだけでは不十分で、「文化」そのものを深層まで抉り出し、なおかつそれをなくして新しいものを作りだす、重層的な作業が必要となる。
現代の社会では、そうした新しい方向への運動性やそれらによる「旧い社会や人々」のパージ、依然として「変わりたくない政治経済・社会と文化」とが混ざり合う過渡期にある。
リベサヨの人々には、純粋な好意から注意・警告を促しておきたいが、「道徳」が今なお果たしている役割を無視してはならない。
それらへの人々や社会のニーズをくみ上げた上で、なおかつ新たなものを提供できなくては、社会のアップデートは成功しないのである。