最近は、ブログで、「男性ケア労働者に現場でケアされたことへの不満」を語る女性と、他方でそれを受けてさらにその女性たちへの不満(や怨嗟?)を語る男性(いわゆる「弱者男性」層とみられる)たちの記事というのをしばしば見かけるようになった。
「不毛だな」と思いつつ、失笑している。
結論から言えば、現代においては、女性ユーザーの不満に妥当性があるし、そちらに対応せざるを得ない、となる。
が、「その不満だけ垂れ流していればいいわけじゃない筈でしょ?」というツッコミもせざるを得ない。
「女医」「女性のケア労働専門職」を、各科目とか地域で満遍なく増やそうとしても、それは容易ではない。
また同様に、各領域の「男性ケア労働者」を増やそうとしても、それまた同様である。
「ケア労働現場は3K労働」だと周知となり、そこらじゅうで人材不足に陥っているのは周知だ。
そして、背景には医療介護費削減を至上命題とする国の財源不足があることも。
ハラスメント的人材や環境があるとすればそれは問題外であるとして、ではその人材不足との兼ね合いをどう捉える?という話なのだ。
学校・教育現場と教員不足の問題と、ほぼ同様に捉えられていくようになるのではなかろうか。
「男性によるケア」を忌避する女性ユーザーがいるとすれば、その体制やケアが充実した環境を提供するケア機関を受診するよりない、となる。
財政や、人材・体制不足以外に、ガイドラインや評価指標・手法(機関や体制、その人材に対する)、監督が不足しているのもまた事実だ。
ただ他方で、そうしたものを強化すれば、「じゃあもういいわ」とケア労働そのものから人材が逃げていく流れとなるのも間違いない。
そうであるとすれば、今後はどういう人がケアを担当する・目指すことになるのか。
学校教員の世界が、「デモシカ先生」とかつて言われたように、劣化した質の人しか目指さなくなる(既にそうなりつつあるが)だろう。
「男性ケア労働者に現場でケアされたことへの不満」を語るのはいい。
しかし、その近視眼だけでいい筈はない。
「今、なぜそうなのか?」という現象の深層部分に目を向け、理解した上で、「その先」の構造的問題やその解決策についても、発言や取組を深化させにいって欲しい、と願うばかりだ。