セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「当事者の訴え」を翻訳的に伝える「現代アート」

筆者は最近、「現代アートとは?」という個人的問いを持って、たまに美術館などを巡ったりしている。

その解の一端として、「当事者の訴え(または社会・政治問題)の翻訳的表現」というものがある。

 

先の記事で、筆者は、「フェミニズム男性学に対して中立」的な姿勢を取る理由をいくつか述べたが、その中で、「当事者の訴えは、それが『正論』だとしても、必ずしも社会に刺さる訳ではない」ことを述べた。

そして、その解決策の一つに、「現代アート」があるのだと考えるのだ。

 

「当事者の声」というのは、それが直接訴えかけてくるのに対しては、必ずしも「かわいそう、気の毒だ、何とかしなければ」と思うばかりではない。

余裕がない人には、またはいわば「差別」的な政策やスタンスを取ってきた「側(ガワ)」のひとにしてみれば、「ウザい」連中、「鬱陶しい訴え」だと感じられるのは、ごく自然なことだ。

 

だが、それが、「アート作品」や「エンタメ作品」になれば、癒しや愉しみも込めた形で、さりげなく、「一般の人々」に届きやすくなる。

それがきっかけで、それらの当事者や、それを巡る社会問題に興味を持つことに繋がり、ひいては、世論を高めることになるかもしれない。

 

筆者が、「現代アート」に興味?を持てるようになったのも、そうした精神的・時間的・知的余裕が出てきたから、という理由に過ぎない。

そうでなければ、そうした作品のことも、そうした作品に込められた訴えについても、決して理解余地は生まれてはこなかっただろう。

 

現代アート」は、それを、(訴えを行いたい)メディア人自らが手掛けることもあるということを以前に知り、一層の胡散臭さを感じたこともあった。

「アート」というのは、感受性依存が大きいため、胡散臭いと感じる人にはどこまでも胡散臭いものでしかない。

なおかつ、「現代アート」というのは、最先端のテクノロジーを駆使したものも少なからず登場しており、同じ「アート」の世界に携わる人々同士ですら、必ずしも理解が容易ではなく、いわばアート関係者間の「世代間格差×デジタルデバイド」も生じているらしい。

 

が、筆者は、「現代アート」そのものへもそうだが、そうした「現代アート」そのものを取り巻く社会環境にも興味が湧いたのだ。

筆者は、個人的には、(日本人にありがちな「印象派」好きで)「近代的な」芸術までは、ある程度理解できるものもあり、楽しむ部分もあった。

が、戦後の芸術以降、現代に至るまでの「現代アート」については、作品そのものも、「現代アート」という営みそのものも、殆ど生理的レベルで受け付けなくなっていたのだ。

 

「当事者の訴えを翻訳的に伝える」というのは、別に「現代アート」に限らない、芸術本来の役割の一つだ。

それが、表現形態や技巧が変わっても、役割そのものは変わらない、というシンプルな事実に、最近美術館を訪れた際に気づいた。それだけのことに過ぎないのだが。

また、「現代アート」には、「人の動き・モーション・アクション」というものも関われば、「(社会的)運動(性)」そのものも、アート的訴えに結びつく、ということもある。

そうした魅力を、次第に知るようになってきた。

当ブログでも、そうした魅力や知見を、折に触れて発信していきたい。