セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

日本社会のポルノ観ー「狂信」「侮蔑」の両極端

日本社会のポルノ観(ここではAVを主軸に捉えている)というのは、非常に両極端に振れていると感じる。

自分は、ポルノを観る以外に、AVを撮ってみたいというアイデアがあった(それについても再論する)が、そうした発想自体も、その環境下では必ずしも論じやすいとも言い難い気がするのだ。

両極端というのは、AVに対する「狂信」と「侮蔑(無関心)」である。

もっとも、こうした極端な観方に分かれているのも理由のないことではない。

 

日本のAV産業は盛んで、コンテンツも非常に豊富かつ多様、ユーザ数自体も無視できない大きさを誇っている。

単に市場規模というだけでなく、「メディア」としての影響力や、産業としての「政治力」もまた無視できないものがある。

それが正負の片側面だけを、賛否双方の側からそれぞれにクローズアップして捉えられていく傾向がある。

特に、否定する側に比して、AV業界やユーザーの「声」が大きすぎてかき消されてしまう。

それ故に、「中庸」「中立」的視点、ニュートラルな立場というのが成り立ちづらく、ともすると、強硬なAV業界やユーザーの視点に絡めとられがちになってしまうだろう。

 

自分が打ち出したいのは、まず「批評」的視点(それも主に「性教育」的観点から)なのだが、それについて論じる前に、ここでは、「狂信」「侮蔑」双方について簡単に整理してみよう。

 

「狂信」(AVユーザーや、AV産業の公式的立場に与する側)

・AV自体のファン。

 AVの演出する「ファンタジー」を信じ込んでしまっている場合も少なくない。

・AVに否定的な言説や、業界環境清浄化等の動きなどにも執拗な攻撃を加え、過剰に防衛・擁護しようとする。

・AV産業は、当然ながら、AVや、業界環境に対する(否定や改善を求める)社会的問題提起は好まない。「健全な業界環境」を前面に打ち出すようなプロパガンダを盛んに打ち出し、AVユーザーがそれに乗っかる構図が成り立つ。

 

「侮蔑」(「無関心」含む)

・AVそのものに対して否定的。

 ユーザーやその利用そのものを蔑視する。知識人のスタンスでは顕著。

 特に、「自慰(のオカズ)」と結びつけてのみ捉える傾向がある。

・AVの演出する「ファンタジー」が、暴力や、実際に行われる性行為に悪影響があると捉える。

・AVの業界環境も問題視している。女優など業界関係者への差別や、法的問題、労働環境など。

 

このように両極端に分かれるのは、「AV自体を観るか、観ないか」というその行為やスタンスの有無自体が、最初のリトマス試験紙にかけられてしまうからだ。

また、AVに無関心な人は、それこそ全く無関心であるから、無知無興味ゆえの偏見もかえって深まってしまう部分がある。

「AV観るの?」とその時点で色眼鏡で見てしまい、それが「AV鑑賞者(ユーザー)」と「無関心者(侮蔑者)」との対立を、最初の時点で決定的なものにしてしまっている。

 

AVは確かに、コンテンツ自体にも業界環境にも、またユーザーや業界自身にも様々な問題があるのが確かだ。

しかし、それでコンテンツやその鑑賞行為自体を否定するのもまた極端と言える。

それが社会の性行動(もっぱら男性だが、近年は女性向けAVも拡大している)を支えているのは確かであり、その分析のためにポルノグラフィやその見られ方を俎上に載せることは不可欠の筈である。

だが、そうした「分析を行う」こと自体が、その人物の「AVへの関心やその習慣があること」を示すことになってしまい、そうした「中庸・中立」的立場が成り立たず、永遠に分析もなされないままのスパイラルが続いていく。

そうした環境とは言えないだろうか。

 

筆者の問題関心は、そうした「中庸・中立」的立場を構築する試みは可能か、可能ならどのような視点か、ということだ。

それについては、記事を改めて論じたい。