セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「リスク社会論」-不条理な事件事故・災害の死傷リスクを含む生活

「リスク社会論」は、ウルリッヒ・ベックによって創始された、社会学の一分野だ。正確かつ網羅的に咀嚼したわけでも、専門家でもないが、ここで述べる趣旨も、基本的にはその「リスク社会論」に包摂されると考えてもらって構わない。

 

現代社会では、「不慮・不条理の事件事故、災害に遭う・巻き込まれて死傷する、または生命財産を損なう」リスクが高まっている。なぜだろうか。

テクノロジーの高度化に、社会や個人が適応できないこと、少子高齢化が行き過ぎていること、格差拡大のセーフティネットが行き渡らないこと、温暖化により大規模激甚災害が、グローバル規模で日常化したこと等、膨大な社会事象を原因に挙げることができるだろう。

 

「不条理な事件事故や災害」によるダメージや死などを受け入れることは、極めて困難である。

ダメージの原因を「なぜ、なぜ」と問うても、答えが明確に返ってこないこともあれば、「責任者」の所在が曖昧、あるいは「自然界」であることもある。また、原因が「社会現象」のような茫漠としたものに帰せられると、個人にはどうしようもない無力感しか残らない場合もある。大規模過ぎる被害だと、そもそも個人法人に法的責任を求められないこともある。また、個人法人が、責任から逃げたり開き直る場合も少なくない。

偶発的な事件事故・災害の当事者となったのに、「なぜ私だけが」「なぜあの人だけが」という問いから逃れることは不可能だ。

 

「死」にも「傷」にも、何らかの意味を求めるのが人間存在だといえる。そうした答えそのものを見つけられないことが、その「死」や「傷」そのものよりも苦しみをもたらすことも少なくない。

特にやりきれないのは、そうした被害に遭った結果、殆ど責任追及の所在を求められなかった場合に、完全な「死に損」「殺され損」になってしまう場合である。

 

そこで「生きた意味」を問うた時に、完全な「砂粒の個人」「砂粒の生」でしかなかったことを、思い知らされるからだ。

これらは、社会システム・社会制度によるところが大きく、「心の救済」によってどうにかできるものでもない。「忘却」「部分的な原因・責任追及による折り合い」によってしか、対応することができない。

「リスク社会」とは、「砂粒の個人・砂粒の生」へとすり潰されてしまうリスクに生きる社会である。

 

おカネをかけたり、権力リソースを手に入れることによって、ある程度、それらのリスクを減らすことはできるだろうが、決してゼロにはならない(むしろ、そうしたポジションを得ることによって、むしろ「守る」責任を求められることも大きくなるだろう)。

対策は、「リスク回避」=「リスクには近づかない」ことしかないが、実生活は、積極的にそのリスクを避けられない場合が殆どである。むしろ、重要なのは、(災害対策のように)「そうした事象に遭った結果、どうなるか」をできるだけ多く具体的に想定したうえで、対処法を知っておくべきこと、であろう。

 

そこには、嫌かもしれないが、「死の覚悟」も含まれるだろう。今はむしろ、「誰かに看取られて、家・病院で安らかに死ぬ」などという死に際を、誰でも想定できる時代ではない。

「自分で臨む死に様」を得られるのは、何よりの幸福であるが、「そうでなかった場合の終焉」を、ある程度想定したほうがよい。確率自体は、個々の事件事故、災害に細分化すれば、ある程度は計算できるだろう。

 

「命あっての物種」だが、「なくなる可能性」をリスクとして含んでおく必要がある。そして、リスクが表面化した場合、「事後に、(当事者として、またはその周辺者が)それに対処するコスト」が生ずる。これが「巨大化し複雑化したリスク社会を生きる哲学」として整理することができるだろう。