今村昌平監督、緒形拳主演作。傍らに倍賞美津子を配する豪華なラインナップとなっている。
(下記、一部ネタバレ注意)
明治期にアジアを股にかけた「女衒」(遊女手配師)、村岡伊平治の生涯を描く。
昭和基準までで言えば九州島原生れの「快男児」の歩みを見るといった趣きになるだろうが、「現代の視点で」様々な史的な文脈が駆け巡った。
・近代日本の女性の経済・社会・政治・教育的地位の低さと差別
(女郎たちの扱いに、明治初期「マリア・ルーズ号事件」の「牛馬切ほどき」という言葉を思い出した)
・食い詰め不法渡航だった女性たちの負い目と、「身体を売って外貨を稼ぎ、家族に仕送りをせよ」と唱えた村岡の「大義」
・明治期の海外進出の中で、「娼館(女郎屋)」は言わば「ニーズ」として捉えられ、その中で村岡の活動余地が生まれたことと、「国立娼館」を目指した村岡
・前科者を雇って結成した誘拐団による日本内地の女さらい
・大正期「廃娼運動」は、海外日本居留地にも及んでいたこと
・「大帝(明治天皇)の御真影」を掲げて遥拝し、「天皇陛下の赤子を増やす」といって実際に多産であったこと(「女は子供を産む機械」という某大臣の発言を想起した)
etc.
自分自身でも意外だったのが、「慰安婦」問題に、初めて「歴史的な」興味が湧いたことだ。
この作品は直接関係するところではないが、間違いなく地続きの問題として存在する。
自分の「慰安婦」問題への関心は、言わば外縁的な、内外に与えた「政治問題」として捉える視角に留まっていたが、初めて「歴史的な文脈」の契機を得た。
あまり視点を拡張するのは本作の感想や視点からズレるかもだが、自分には完全に歴史的に一本線に連なる問題に見えたのだ。
・「近代海外進出(植民地支配含む)×女性差別」は深く連関していたこと。
そしてその差別・支配構造は、近世以来の日本社会・文化に深く根差していたこと。
その一方で、「社会の近代化」の文脈の中に「廃娼運動」も位置していたこと。
・「天皇陛下の赤子」という概念が、近代日本の実体的規範として作用していたこと。
・昭和恐慌期まで及んでいた「身売り」
(そして令和の今になって、ホストの「掛け(売掛)」の負債から女性を「風俗堕ち」させる手口が「社会問題」として取り上げられるに至っている)
「慰安婦」問題そのものは、既に(内外に対する「政治問題」としての)「型」は見えている。
しかし、「歴史問題」として終わってないと感じるのは、上述の通り、日本国内の「今の」差別や社会問題が終わってないからだ。
こうした分析については、今後の課題として積み残しておきたい。