前々から気にかかっていた、日本の労働組合(法)・労働運動史に取り組むことにした。
無論、「リアルの政治・社会・法(構造)の課題に正面から」取り組むためだ。
「北欧厨」と切り捨てる表現をしたのは、意図がはっきりとあるからだ。
社会学界隈では、もう20年ほど「北欧モデル」への憧憬を示すトレンドが明確にあるし、また実践ベースでも、そうした取り組みを「輸入」している人々も少なからずいる(筆者の直接の知人にもいる。社会起業や農業等、北欧のみでないが「オルタナ」的ニュアンスを取り込んでいる人々が見られる)。
こうした取り組みには、日本人・日本社会のライフスタイルや人々の思考法転換という点では重要な意義を認めている。
が、「社会改造」という点では、戦略的に殆ど意味を持たない、と捉えている。
なぜか。
簡単なことで、産業の成り立ちも、社会の成り立ちも、法や組合・運動、福祉制度のあり方から何から何まで、北欧とはまるで「歴史」が違うからだ。
それらの「社会・組織・法構造」に深くメスを入れない限り、日本の国や社会を「正統的な形で」前に進めることはできない。
(「オルタナ」の導入は、「大衆トレンドの搦手から」の戦略と見なすことはできる)
「北欧のモデルが素敵だから」と憧れる気持ちは分からないではないが、政治的・社会的戦略の有効性は、それ(アイデアや取組の輸入)だけでは極めて低いと言わざるを得ない。
筆者が「北欧厨」と侮蔑的なニュアンスを込めたのには、もう一つ理由がある。
「北欧モデルをまるっと輸入する」という発想そのものに、(日本の「外来思想翻訳・輸入」系知識人にありがちな)「思考停止」がありはしないかと勘繰っているからだ。
古代は中国から、近代はヨーロッパから、戦後はアメリカから、そして今度は、「北欧から」まるっと思想や取組を輸入してこよう、というように筆者には見えてしまっている。
※また北欧厨は、軍事の問題(北欧とロシアとの関係)をきちんと認識しているのか?という重大な疑念もあるのだが、ここでは逸れるので措いておく。
「輸入」というのは、自分で考えずとも、すでに出来上がったプログラムがよそにあるから、それを翻訳してカスタマイズすればすぐ使える、という点では便利で手っ取り早い。
それに引き換え、「社会・組織・法構造」に深くメスを入れるなどという作業は、途方もなく大変な上に、既存の理論や既得権から激しい反発を食らうリスクを冒さねばならぬ。
「最新外来思想の崇拝」というのは日本人の宿痾だと思っているが、この「病」に、知識人は重篤に冒されている割に、その危うさと馬鹿さ加減を自ら認識できず、かえって誇る始末なのだ。
「北欧モデル」に憧れて、輸入して鼓吹したり、また実践するのは自由である。
上述の通り、筆者もその意義は認めている。
だが、それはやはり、日本社会では「個人の趣味」の世界に過ぎないというのを同時に認識すべきだ。
知識人、特に社会科学系の学者・研究者がそれにコミットすることは、(日本社会の厳しい「現実」からの)完全な「現実逃避」なのだ、ということを意識して取り組むべきである。