セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

フェミニズムと男性学へのスタンスと狙い。

(前稿の続き)

昔は「慰安婦問題」も、どう向き合うか距離感を測りかねていた。(まあ外交状況はそれらを遥かに飛び越えてしまったが)

今なら、だいぶ年月の積み重なりも知的蓄積も豊富になり、冷静に議論を吟味できる土台が整っていると言える。

現時点での立場ないし仮説は結構はっきりしている。

 

慰安婦問題」は、日本国内でのフェミニズムの普及に貢献した一方で、結局のところ、学問的には、「特権層の、特権層による、特権層のためのフェミニズム」に終始し、大衆化には次の文脈を待たねばならなかった。

また、「韓国側の外交的利害」に容易に結び付く、または「利用されやすい」(と捉えられる)こと=政治的な位置取り自体が、右派の攻撃や反発を受けやすく、来たる「バックラッシュ」は、自らの中に誘因を持っていた面も否めない。

(「韓国人の慰安婦に対して、日本人のあなたが、何を根拠に、直接『当事者性』を持って関われるの?」という右派のカウンターに対しては、運動者以外に、フェミニズム側の「一般に刺さる」有効打は希薄だったと言えよう)

 

慰安婦問題」を「日本のフェミニズムの中心イシュー」にしたのは、「外圧に弱い」日本社会の弱点をうまく突いて拡大したものの、フェミニズムの大衆化は希薄で、肝心の日本社会内部の問題解決に直接貢献するところ少なく、「戦略の功罪相半ば」するという評価だ。

ただ、「対立構図=どのような敵を相手にせねばならないのか」は、自分たち自身で、その激しい論争や対立で明確に認識できるようになり、その知見は、次世代に伝達できるようになったろう。

 

このように、「リアルな国家的政治対立の構図」の視点を導入してる時点で、フェミニズムの論調と足並みを同じく出来ないのは明白である。

フェミニズムの運動目的や目標には「正しい方向性」を見出せるが、「慰安婦問題」を日本社会の「中心」に据えてしまったのは、「国内=日本社会の差別や暴力」を解消・解決する戦略としてはズレが大きかった、との立場を取る。

日本のフェミニズムの目的に「慰安婦問題」解決が含まれて当然良い。が、「優先順位」は結果的にどうだったのか?という話。

 

慰安婦問題」は積み残してきた課題なのでこれからやるつもりだが、当然それは自己内部の「中心イシュー」ではない。

やりたいことがあり、その言語化のプロセスにはフェミニズム、むしろ男性学の知見が援用出来そうだしすべきだという見通し、または直感がある。

目的を同じくする訳ではないが、領域に重なり合う部分がかなりあるからだ。