セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「ホモソーシャル」な文脈における「転向」。

(ネタバレ注意)

少し前だが、自主上映されていた映画「わが青春つきるとも」を見た。

戦前の社会運動家伊藤千代子を主人公にしたもの。

映画自体とても素晴らしいもので、史実として知らないことも結構あった。

それについては、また別の機会があればまとめたい。

 

「転向」(運動者側の視点では、「変節」という言葉が使われていた)について、最近ハマっているフェミ・男性学的な視点で、少し気づいたことを記しておきたい。

この映画の素晴らしい点は、徹頭徹尾「若き女性運動家」の視点から、戦前の社会運動を描いた点で、「ゾンビ化したマルクス主義運動者の自慰」に陥ってない点だ(映画観覧者が本当にじいさんばあさんしかおらず驚愕した。むしろそんな映画を「発見」している自分自身に驚愕すべきか笑)。

昔から、「転向」という事象に興味があったが、そこにフェミ・男性学の視点から切り込むというのは、今回の映画で初めて着想した点だ。

 

映画では、共産党指導者だけでなく、夫までもが「転向」の上申書を思想検事に提出した事実に衝撃・動揺を受けるシーンは、最も重要な場面といって良いだろう。

興味深かったのは、千代子はじめとする女性受刑者たちが、ついに「転向」を申し出なかった点である(史実については調べてないので知らないが)

立花隆日本共産党の研究」はとても面白くて、かつて熟読していたのだが、そのなかで、当局の厳しい弾圧にあっさりと自白や転向を行ってしまう情けなさに、正直失望した覚えがある。

「(仮にも『革命』を志していた)共産党者って、こんなに弱い存在だったの?」と。

ただ、その「弱さ」は、「男だけで構成する社会」ゆえに現れ出た「特質・特性」ではないのか、と感じたのだ。

 

水野成夫を初めとする共産党指導者が、当局の責めに妥協して「転向」声明を発表したことは、共産党の理念(=「天皇制の打倒」)からすると、許されざる裏切り、というより、「自己破綻」を招来する決断・行為だったのは間違いない。

(理念に準ずるなら、全員上申書提出を拒否して獄死する判断を選ぶよりない)

その一方で、「このままではどう足掻いても運動にもその主体である我々にも先はない」と捉えて、「現実に合わせて妥協しよう」とした指導部の判断自体は、「心情」としては、よく理解できると感じるのだ。

ただ、この種の「共感」は、ひょっとすると自らが「男」であるから(あるいは「男社会」に生きる主体だから)、ということと関りがあるのだろうか、との疑念が生じたのだ。

 

気づいたことは、思想検事や特高にせよ、共産党指導部にせよ、全員「男性」である。

千代子ら女性の「中間的指導者」は、「男性の最高指導者らの方針や行動を信じて、従っていく」立場しか選び得ない。

その中で「理念に殉ずる」のか、「現実に合わせて、自らの理念と行動を変えていく」のか、その判断に何らかの「男女差」があるのか、というのが、今回生じた興味と言える。

 

これは単なる思考実験だが、「男女逆転大奥」のような形で、「政府当局(思想検事や特高)も、共産党指導部も皆女性」のパターンだったらどうなるだろうか、というのも興味深い。

尤も、「日本社会で転向が起きやすい」のは、「宗教(特に一神教キリスト教)的背景がないこと」「亡命という判断が極めて起きにくいこと」といった歴史社会学的背景の差異を、当然考慮に入れなくてはならないが。

「転向」で考えるべき文脈というのは、「運動指導者の風見鶏」的性質だ。

「運動指導者」というのは、当局と交渉する「権限」を持っている。

場合によっては、「仲間を売って、自分だけ助かる」というユダの判断をする交渉すら可能だ。

(日本の当局が、自らの統治にそぐわない「異端者」を、「拷問×猫なで声で転ばせるアメとムチ」の手法は、江戸時代のキリシタン弾圧と、まるで異ならないことも今回の映画でわかった)

 

ただし、「ホモソーシャル」な文脈では、「当局-運動指導者」間に、「男同志ゆえに通じやすい道義や情理」を、巧みに利用している可能性がありはしないか。

「女性-女性」や、「女性-男性」のパターンならどうなるだろうか。

着想は我ながら面白いと思うのだが、まだカードが足りてないな。