(閲覧注意)
※差別的な意図はないが、各種社会的な文脈は押さえた上でないため、結果的にそうなっている可能性はある。あくまで、知的な思考実験としての営みが目的となる。意見や批判等あれば歓迎する。「健常者」「身障者」という用語を用いているのだが、この用語は現代では適切なのかも未確認なレベル。
先日長電話していて盲点を突かれたトピックの一つが、「身体障害者のAVは可能なのか」という問いだった。
※正確にはそのような形を取ったのではなく、ある著名な「性豪」がどんなセックスをするのか、という(そこは興味本位の)トピックからだった。彼は、「AVとして残すことに社会的意義がある」という主張をしており、妙な説得力を感じた。当時そのような角度での社会的な切り取り方がなされた印象はなかったからだ。(単なるスキャンダルとしては別に深い興味はなく、あったけど知らないだけの可能性もあるが)
各種「身障者」の扱われる映画やドラマでは、性的なシーンや、それを示唆するシーンが現れるものも少なくない。
有名なところでは、「ビューティフルライフ」や「ジョゼと虎と魚たち」等。
もっとも、これは「健常者」たる俳優が、「身障者」を演じる作品であるが。
こうした一般的な映画やドラマではなく、「身障者」自身が出演するAVは可能なのか、というのが昨日現れ出た問いだった。
昔、「セックス・ボランティア」という本が注目を集めたことがある。
タイトルのみ知ってるだけで未読。出版当時以降も、興味を持ったこともなかったため、その後、社会的議論が深められたのかどうかも知らない。
AV自体が、存在の是非を問われることは知っている。ただ、今回はそのような視点までカバーしての議論展開の余力はない。
気づいたことは、AVは、「健常者の、健常者による」側面や目的が強い、またはそれが「大前提」になっていることだ。
最近でこそ、「老人AV」が一ジャンルとして確立しており、高齢者自身が出演している作品は既に普及している。(好みでなく観たことはほぼないが)
一方で各種「身障者」自身が出演している作品は、あまり見かけたことがない。
もちろん、興味を持ってないだけ、知らないだけの可能性は大いにある。(具体的な作品をご存知なら教えて頂ければ幸いです)
そうした規制や議論の有無があるかどうかすら。
(「身障者のセックス」はタブー視されていた、というのが、上記「セックス・ボランティア」出版当時のテーマだったと記憶しているが)
差別の温床になり得る一方で、上記同様の「社会的意義」を持ち得る可能性も否定出来ないのではないか、というのが、今回の趣旨となる。
「身障者」の「障害」には、そもそも様々な様態と、各々の生活様式がある筈だ。
一方で、性生活全般や、性欲の形態はどのような形を取るだろうか、ということはよくわからない。男女の性差も当然ある。
「身障者」自身の生活や人生の中で、「性欲」が、どう位置づけられていくのか。
それぞれの障害で、何が可能で何ができないのかすら。
介助が必要とするなら、何をどう介助して、何をどう・どこまで出来るか。
「性欲」そのものは、性的機能自体を喪う障害でない限り、簡単に失われるものでもないと単純に想像する(ここも正確な医学的見地がある訳ではない)
「身障者」どうしで結婚したらどうするのか、「身障者」と「健常者」のカップルならどうするのか、とか考え始めると疑問が続出する。
当事者・家族や関係者なら当たり前に知ることかも知れないが、「縁がない」と何も知らないのだな、という「当然」の事実に過ぎぬのだが。
もっとも、高齢者施設における、利用者のスタッフに対するセクハラの事例は聞いたことはある。そのような事例と近いものがあるのか否かも。
「身障者」には、教育課程において、特化した「性教育」もあるのだろうか。
日本社会は、そもそも学校教育段階での「性教育」が拙劣を極めると近年は批判の声が大きいが。
「健常者」に対してと、同じ内容や目的での「性教育」では、あまり教育目的を果たさないだろう、ということは想像はつく。
しかし、そのようなコンテンツの有無や、あるならどんな内容か等、とにかく知らないことしかないのだ。
「身体障害者のAVは可能か?」というのは、そのような視点からの思考実験なのだ。
作る・あるとしたら、まず「誰に向けた」「何のためのもの」なのか。
「身体障害者のための性欲処理」か、「身体障害者の性教育」目的か。「性欲処理」が目的とするなら、その時点で「どうやって?」がくっついてくる。
ではなく、「健常者」が「身障者の性」の様態について知ることが目的か。
「身体障害者」自身は、AVに出演する・したい・出来るものなのか。
あるいは、そもそも既存の(「健常者」前提の)AVを観るものなのか、観てどう感じるのか。
「ペアリング」はどうするのか。「身障者」「健常者」は各男性の側か、女性の側か。両方「身障者」だとするならどうするか、そもそも可能なのか。「介助」が必要として、どうするのか。
そして、「AV自体のシチュエーションとしては」、etc.
自分の好きな芸人のYouTubeチャンネルで、過去にAV制作に携わっていた放送作家が、「テレビ番組からAVに流れる制作スタッフは結構いる。規制が多いテレビに比して、AVはNGがないからだ」と言っていてとても面白かった覚えがある。
確かにAVは、信じがたいようなシチュエーションの作品も少なからずある。
だとするなら、今回掲げたような視点の作品も「有り(あるいは既に存在する)」なのか。
また、「需要があるのか、誰に」という根本問題も避けられない。
このように書いてきて何だが、「見てみたい」という欲求から、この記事を書いたのではない。
「社会的に存在している現象ないしは課題なのに、何一つ知らない」ことについて問いや理解を深める契機になるのではないか、という一種の(自分自身への)課題提起が目的と位置づけられるだろう。