セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

衰亡・爛熟文明社会に必要なデカダン、「SDGs」

SDGs」という総花的かつ社会動員的なスローガンについて、どう捉えるべきか、つらつらと思案する時期が続いたが、ようやくスタンスが見えた。

 

SDGs」というのは、無論大真面目に信じている人もいるかもしれないが、「誰か」が「ある時点から急にこさえた」代物である。

その意図と目的・目標地点や手法について見定めたい、との思いがあった訳だ。

「コロナ後のウクライナ危機」を通じて、「サステナブルな」環境施策に対して、欧州でも急ブレーキがかかっていることで、解は全て揃ったということができるだろう。

 

正直に言って、「SDGs」は、「必要悪」と言えるほど「カッコいい」もの、そもそも「悪」と言えるほど「形のあるもの」を成しているとすら言えないのが現時点。

それほど曖昧で脆弱不安定なものに過ぎない、と評価せざるを得ない。

 

が、「必要なデカダン(退廃)」とは言えるのではないか、とふと思いついたのである。

「人類の文明社会は、このままでは維持できないよな」と、「何となく」は皆気づき、共有もできるようになっている。

でも、「だからと言って、何ができるの?」というところまで、はっきりした法規範を作って全員を縛って、というところまでは、到底達しえない。

そもそも、政治以前に、そこまでの知識や情報の蓄積すら十分とは言えない。

だから、当面は「空気」「雰囲気」で縛ってやろう、というのが「SDGs」の狙いなのである。

 

これは、「衰亡・爛熟した文明社会」に特有の現象でもあるし、有効な戦略でもある。

「衰亡・爛熟」文明社会としては、末期のローマ帝国とかオスマン・トルコ帝国、日本なら江戸末期の化政文化などを挙げると良いだろう。そして、今の日本や欧米が、まさにそうなのである。

 

「エコ」などといっても、そこで打たれる施策は、すこし時間や距離を置いたところでみると、そのほとんどは馬鹿げた気休めか、子供じみた思いつきでしかなかったということが明らかになる。

けれども、「新たに消費すべき価値観」を広大に切り拓いてくれたのは事実だ。

そして、その傘の下で、「息永らえる」(「サステナブル」を実現できる笑)産業や社会も一応は存在できる。

これを「デカダン」と言わずして何と言おうか。

しかし、「社会に必要なデカダン」ともいえるのだ。「間違っている」ということも出来はしないし。

 

では、なぜそのようなデカダンが大流行するに至るのか。

爛熟した文明社会には、特有の「かったるいほどの蜜のような甘さ」があり、「デカダン」こそが、その淵源となるからだ。

デカダンこそ、悦楽・愉楽・快楽の最終形態。

人個人が中途半端に永い人生を、「どうにか折れずに生き切る」には、デカダンに頼る、あるいは直接でなくても下のクッションに敷いておくことがどうしても「必要不可欠」なのだ。

その観点で、「社会設計に必要なスローガン」としての「SDGs」の効用は認めざるを得ない。

 

ウクライナ危機」を通じて折られた「エコモンスター世代の若者たち」は、この挫折体験を機に強靭にならざるを得ない。

その若者たちはどう成長するのか、更にその子どもたちはどんな世代になるのか。

これこそが著者自身が何より享楽する「デカダン」なのである。