セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「親ガチャ」という言葉にピリつく大人たちへの失笑。

下記は1年ほど前に「親ガチャ」について別ブログで書いた記事だが、最近、やや別角度からの感想を抱くことがあった。明日はその記事を更新予定。

 

>>>

今でも使われているかわからないが、「産んでくれと頼んだわけじゃない」という反抗期の子どもが親に向ける定型句があった。

「親ガチャ」という言葉には、個人的には、諦念は込められているものの、幼稚な感情よりは、むしろ社会や家庭、自己を冷静に見つめる目線を感じ、感心した。

また、その言葉を発する子たちにはそのような意図は無論ない筈だが、格差が固定されてしまう社会に対する痛烈な皮肉が感じられ、痛快なカウンターを見た気がした

このようにどちらかといえば好意的(?)に眺める視線というのは、少数派なのかもしれない。SNS上でも「親ガチャ」という言葉にピリついたり、イラついたりしている意見が少なからず見られたその現象自体にも、興味をそそられた

 

なぜ親とか大人たちがここまでピリついてるかといえば、「親ガチャ」という言葉が、まさに親たちの弱点を、下記、いくつかの点でズバリと致命的に突いているからではないだろうか

(自分は今のところ「人の子の親」になろうという意思なく、いわば「無責任」な立場にあるため)ピリついている大人たちを冷笑し、またなおかつそのいら立ちの精神構造が透けて見える気がしてならないのだ笑

1自分自身が、「外れ認定」されたくない

単純に、自分たちが、ゲームの「ガチャ」にたとえられ、あまつさえ「ハズレ」などと自分の子どもから認定されてしまうことに、精神的に耐えられない

 

2格差が固定化されている社会になっていることを(内心では薄々、あるいは少なからず気づいているにもかかわらず)認めたくない。

特に子供から「親の経済力のせいで…」のような形で突き付けられることにも実存的に耐えられない

 

3想像力が足りない

なまじ(例えば安定したサラリーマン家庭で育ち、自らも同様の道を歩んだとするならば)毒親やDV・貧困の家庭、あるいは最近注目されるようになった「ヤングケアラー」などの環境にある子どもたちが、「逃げ場所もなければ、何の選択肢もあるはずはない」などということに想像力が欠如・不足している。

恐らく、半端に「自己責任」思想を持った大人ほど、そのような子どもたちに何か場所を作るとか手を差し伸べられるかとか、社会的対策が必要どころか、自分とかかわりがある社会的現象とすら、考えたことがあるのだろうか

 

4「親である」というだけで、一方的に子に対して威張れる・偉ぶれる(尊敬される?)という無根拠な思い込み

世の親を見ていると、「子どもからの感謝の念とか言葉」を期待している親がすごく多い印象がある(卒業式とか結婚式とかの子どもの「節目」でそうした言葉を期待して浪花節の筋書きをつくるのは、定番のパターンだろう)。それは、果たしてどこから来るものなのだろうか(儒教的社会の遺制からくるのか、情緒的な「甘え」の精神構造からくるのか、他国の社会とは異なるものなのか気になるが、検証はしていない)。

なぜ「親である(子育てをしてきた経験と実績?)」というだけで、「子どもから尊敬される・感謝される」という自信(というより自惚れ)が湧いてくるのか?子どもの側からも当然、「社会学的・経済的に鋭く批評される」という視線を、なぜ認容できないのか。

 

5何より、(仮に上のような批評とか現実を受け入れたとしても)親自身は、今さら自分自身や子どもの現実を変えられないこと

つまり、その言葉の前には「完全な無力」のまま、親は立ち尽くさずにはいられない。

しかも残酷(むしろ幸いなのか)なことに、(「産んでくれと頼んだわけじゃない」という言葉と異なり)「親ガチャ」という言葉が、恐らく直接子どもから親自身に向けられることがない。

向けられたとしても、悲しみと怒りのあまりに開き直って、「人生や社会は自己責任だ」と逆ギレする程度しかできないだろう

 

「親ガチャ」とか、その言葉を発する子どもたちを非難しようとすればするほど、大人たちは、自分たち自身が、社会の現実や、自分たち自身を見つめることから逃げ続けようとするというループの構図にある

別に、ことさら「親ガチャ」とか、それを発する子どもたちを擁護したり味方するつもりはない。しかし、その言葉に、鋭い社会批判が含まれる限り、「(子どもは持たないが)大人として」甘受せざるを得ないし、その言葉から逃げようとする大人や親たちのことをどこまでも冷笑し、その精神構造を解析したいと考えるものである笑

(3.10.5)