「一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから、他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
漱石「道草」の一節。筆者は小説は読んでないが、印象的なこの一節だけは知っている。
主人公が、面倒な身内に手切れ金を払って縁が切れたと喜ぶ妻をたしなめたシーンでの、味わい深いセリフだ。
ずっと昔、古書で見つけた河合隼雄「家族関係を考える」で紹介されていたのである。
昨日、偶然的なことだったが、「世の人は、意外と親戚・家族付き合いの基本的な事柄で悩んでいるのだな」と認識する機会があった。
まあもしかしたら、筆者自身も実際はそのように認識されているのに、「知らぬは己ばかり」という事態だったら非常に苦しいのだが。
それとは、全く関係ない文脈で、筆者には珍しく、図書館で小説を借りた。
(筆者は2,3年に数冊程度の割合でしか小説を読まない)
山内マリコさんの「選んだ孤独はよい孤独」他2冊。
彼女の名は、麻布競馬場氏が挙げていて知った(佐藤優が、「Z世代を理解するカギとなる」で彼の「令和元年の人生ゲーム」を挙げていたので、「紹介の紹介」?的な)
特に、「選んだ孤独は…」は(超)短編集で、小説嫌いな自分でも読みやすい。
言わば、近年流行りの、「若い男女の思惑すれ違い」物。
筆者は、女性側の視点を知るために、時に好んでその手のレディコミを読んだりしてきたが、今回は小説版という訳だ。
(それとはまた別個に、とあるベテラン男性芸人の近年回顧録も脳裏にかすめているが、ここでは便宜上端折ろう)
まだ、十分に整理できないが、
・家族付き合いの困難
では、
・非常識かつケアワークにも無縁の、「無用物の男性」
が介在してないか、というのが共通した気づきなのだ。
そこに、妙に
・親戚の泣き寄り
が絡んでくると、「邪魔」と分かっていても切り捨てることができない。
そうした共通事情があるかもしれないと推察した、といったところか。
「うるさい親戚の泣き寄り」と表現したが、やはり完全な「天涯孤独」は避けたいとの心情を、馬鹿馬鹿しいと一刀両断に切り捨てることは難しい面もある。
特に、「多死社会」に突入していく中で、「孤立死(在宅ひとり死)」がこれだけ叫ばれながら、その十分な解決策も見いだせず右往左往するだけの日本社会においては…
「カネ」とか「生活の不安」という、根本問題があって、切るに切れない、という切実な事情もある筈だ。
自分は、半ば醒めた気持ちで、さして深く突っ込むこともせず、話を聞くともなしに聞いていた。
「無用物の男性」というのは、自分が出来ないほど、周囲に絡まざるを得ない一方で、そうした「厄介者」の自己認識にも乏しい、という特色があるらしい。
「いや要らんわ!!」という女性のメッセージを、どうしても受信することができない。
というより、そうしたトレーニングや習慣が、社会にそもそも欠けているようなのだが。
(前にも書いたが、彼と同棲している女性同僚の愚痴をよく聞くことがある、のが筆者のポジションのようだ。笑)
自分の持論だが、「負け家族」というのは、持っても財産にはならず、負債になるだけである。
(「親ガチャ」というのも「負け家族」の一種とみていいだろう)
だが、デフォが「負け家族」だった場合、複合的事情から、独立・自立は容易ではなく、むしろ人生全体が泥沼に塗り込められてしまう人々も少なくなかろう。
「稼ぎ手」にすらなれない「無用物の男性」を、家族として抱えていた(しまった)場合、どうすればいいのか。どうにもならないものなのか。
「無用物の男性」論は、「弱者男性」論とも、また切り取り方や問題性自体も異なる。
(結局筆者は、「弱者男性」という切り取り方が、社会学上適正かどうかすら、未確認の状況なのだが)
「無用物の男性」というのは、日本の男性(のマジョリティ)に、潜在的な(そうなる)可能性がある、という問題性である。
無論、個人差・家庭差や世代間・経済格差等は大きいと想定されるが。
筆者が醒めていたのは、上述の通り、「切れないのは、妙な情実が判断に絡んでいるからだ」と見ていたからだ。
経済的・精神的自立の部分である。
カネ(や家・住まい)は仕方ないとして、「孤独への恐れ」が想像以上に強いのだと考えられる。また、「世間の目」という、これまた非合理な基準も無視できない存在感がある。
それらに余裕があり、また周囲も納得づくなら、(当然、介護サービス利用込みで)「面倒を見る」という判断を昔なら行えたかもしれないが、「人生100年」時代の「超・超」長期戦でどうなるか、という想定が十分できないのは無理ない面もある。