セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

過疎地老人が見放されていく過程

最近、割と身近な関係の老人(女性)が、自分の住む(都会に比べればまだコミュニティが密なはずの)過疎の地域からも見放される、という過程について詳しく聞くことができたので、それについて書きたい。

 

老人は、長く夫と2人暮らし(子は3人いるがいずれも遠隔地)だったが、2,3か月ほど前に夫は他の施設に入所することになり、独り暮らしとなった。

それで不安を覚えるようになったらしく、次第に、パニック障害でたびたび医者や近所の友人に時間を構わず電話を掛けたりして、顰蹙を買うようになった。

そうした行動は、子どもに厳しくたしなめられたらしく、少しは収まったらしい。

 

しかし、夫の死亡が決め手になってしまった。

夫の死後、子が葬式を執り行ったのだが、子は、面倒を見てくれた医者や近所の人々には何の礼も挨拶もなくさっさと帰ってしまったというのである。

それに憤慨し、今まで気にかけてくれていた近所の人々も、独り残された老人にはソッポを向くようになったという。

 

何でも、老夫婦は元は別の地で牧場経営をしていて比較的裕福だったが、それを長子に相続する際は子供と相続でもめ、引き払って移った地では、遠隔であることもあり子どもとは没交渉になっていったということである。

 

 

筆者は、この手の「家族や近所などの縁・関係がある人でも、次第に見放されて孤独になっていく」過程をよく見ているし、むしろ普通のことだと感じている。

今回の場合、本人の不安症みたいな要素もあるが、老後を見据えた社会関係資本の作り方に失敗した、と言えるだろう。

具体的には、家族との繋がりの作り方と、その後の関係の在り方だ。細かくは何があったのか分からないが、自分たちには無関心・没交渉の関係に陥って、最終的には、それで現在大事な地域の縁すら薄れさせるマイナスの効果すらもたらした。

 

「家族や近所などの縁があっても見放される」でよくあるのは、「鬱陶しくて、家族や友人からも相手にされなくなる」パターンである。

そうした人々というのは、「本来無関係の外部者」に長々と話しかけたりして、孤独を紛らせようとしがちだ。

「話し相手」を求めても、もはや相手にされなくなるからである。

 

まあ老人とは本来そのようなものかもしれないが、超高齢社会でなかなか死なないとなると、そうした孤立が超長期、下手すると十年単位で継続することになるから苦しい人もいるだろう。

「一人でも精神的に豊かな生活」を送れれば無論問題ないのだが、意外にそのような人々を見かけることは少ないように思う。

「人との関係がないと寂しさを紛らせられない」幼稚な(というより「日本人的な」)精神的在り方の人々が多いことと、自分の身体に自由の利く「身体的健康」の維持がもう一つの条件になるからだろう。

 

家族やカネは、それだけではリスクヘッジとはいえない。

十分条件であって、必要条件ではないのだ。

筆者は、必ずしも「老後の豊かさには社会関係資本が必要条件」とは考えないが、最低限の備えがなければ、本当に0になる(擬制家族でも全く問題はない)。

「関係」というのは、「いざという時動いてくれるかどうか」ということで、「形だけのものをとりあえず作る」こととは訳が違う。

「関係づくり」のために、色々なリソースを活用できる、ということは無論出てくるだろう。

 

「超高齢社会」になっても、「どんな老後、どんな死に方を迎えたい」は、真剣に考え準備しておかないと失敗する。

これは本来、哲学や宗教が人々に指導すべきところなのに、それらが無知無能で怠慢であり、何の処方箋も提供してない状況ということができる。

だから、「終活」などと、結局ビジネス主導で誘導されており、当然ないより全然いいが、それでも皆殆ど準備してない。

 

「自分にはそんな遺産はないから」とかそういう問題じゃない。

自分の老後・自分の死に方の話なのだ。

「自分の老化・自分の死」に「当事者性」を持てない。

そんな訳の分からない社会に、われわれ日本人は生きているのだ。