セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「無色透明」の自己…?

(長文注意)

厨二病全開みたいなタイトルになった。

 

昔、筆者は、学生時代に、大学生ととある著名政治家とのオープンな対話イベントのようなものに参加したことがある。

その時その場で、筆者の知り合いの、割とイケイケの学生団体活動の指導者が、「今の生活に不満を感じない」といった趣旨の発言をしていて、内心憤りを覚えたことがあった。

「なんでそんな社会的視野が狭いわけ?何でもっと、世界とか社会に目を向けて、自分自身と結びつけて考えないの?」

と感じたのだ。

しかも、その人物は当時、斯界では活動家として知られた人物で、その後起業もしている。

 

筆者は、当時も今も、政治とか社会全般に関して、極めて興味関心が広いほうだ。

当時は、政策に漠然とした関心を持つ中で、関連イベントや、そうした興味を持つ学生と交流を持つ中で、当該イベントにも参加した(発言もした。周囲にインパクトも与えていたみたいだが、どんな発言をしたのか全く覚えがない。笑)

 

変なことに気づいてしまったのが、「政治にも政策にも、今の日本社会にも、大いに不満や憤懣を覚えている(だからこそこのようなブログも書いている)のだが、今の『生活』自体には不満がない」な、ということなのだ。

これではまるで、先に述べた学生と同じになっているではないか、と愕然としたのだ。

 

実際は、社会問題に深い関心があり、そこにも将来的に何らかのアプローチを行おうとすら思っている。しかも、そうしたテーマ自体は、いくつもある。

が、これが、変な話だが、「自分の『生活』からは遊離してるな」という感触があるのだ。

正確には、そんなことはなくて、自分自身の「将来的な」生活問題には密接にかかわってくる社会問題に取り組もうとしているから、そんな感覚を覚えるのは実際にはお門違いなのかもしれない。

だが、「今の生活には不満がない」のは事実なのだ。

 

つまり、日本社会や、日本政治には、大いに不満を抱いているのに、そこに切迫感や危機感を持った問題意識を感じてはいないのである。

「当事者性」がない、というよりは、「当事者性」のある問題からも、距離を持った接し方・付き合い方を、意識的にしてきた、といったところだろうか。

 

今はだから、社会においては、「無色透明」の状態、「幽霊」か、「透明人間」のように存在しているのだ、という気がしているのである。

なぜ、そう感じたのか。

 

政治への問題意識も、将来的にやろうとすること自体は、膨大にあるのに、その(生活に根差した)「端緒」がないと感じたからなのだ。

別に、行動したくないとかできない、勇気がないという話とは全然関係ない。

それらの問題関心が、「今の自分自身の生活と関係ない」に成り立っていることに、妙なふわふわとした違和感・遊離した感覚を覚えたということだ。

 

今の「自分自身の周辺」には、地域にも職場環境周辺にも、山のように社会問題が転がっている。

コロナ禍という状況が、それに拍車をかけてきたこともある。

そこに、大小関与してきた、ということもあった。

とはいっても、そこで「身を切られる」ような状況に陥ることからは、周到に身を避けてきた。

保身と取られても別にいい。

 

じゃあ今持っている「政治」的「政策」的関心、というのは、全て単なる「趣味」ということなのだろうか…?

そして、それが「悪い」ことなのだろうか…?

一体、「何に対して」違和感を感じているのか、そしてその感覚は果たして「正しい」ものなのか…?

 

本質的に、「日本社会」などどうでもいい、その前提の生活に過ぎない、ということだろうか。

結構いい線行ってる感はある。が、芯を突いていない気もする。

 

では、「本気で勝負してない」ということか?

これは、「現状の事実」の叙述であって、根因を説明したものではない。

 

でも確かに、「日本とか日本社会を生きる」ことへの切迫感は、既にない。

どうでもいいし、将来は、他国や別の社会で暮らすのもありだとは感じている。

別に、そうした具体的なプランや準備を持っているわけではないが。

でも、可能性はある。

 

また、「世界や社会が、1年後どうなっているか」も分からない、ということもある。

自分個人のことは、少しイメージがある。

 

「日本」とか「日本社会」が、自分の中で、すごく「点景」化していた、というのに気づいた。

信じられないほど小さい。

別に海外に住んでいるわけでもないのに。

 

じゃあ、政治や政策、社会問題について考えていたのは、単なる先に述べた「趣味=頭脳スポーツ」の一環だったのか…?

そうだともいえるし、そうでないともいえる。

つまり、「惰性」の側面が強い。

即ち、「学生時代からずっと取り組んできた興味関心の一環として」、今も引き続き知的好奇心を持ち続けている、ということだ。

しかも、その時は、まだ問題関心は漠然としていたから、それを具体化させたい、という意識だけは、大人になっても持ち続けてきたのだ。

 

学生時代に、「すべての知識人は、『亡命者』でなくてはならない」という、確かエドワード・サイードの言葉を授業で教わり、強い印象を受けた覚えがある。

意識して「そうあろう」とは少しも思わないのに、気づけばそうなっていた、というところか(まあそもそも、「知識人」でもなんでもないのだけど)

 

「日本社会」「日本政治」にコミットしたい、という気持ちは今でもある。

が、たぶんそこには、差し迫った「当事者性」は、少しもないのだ。

よその国に行っても余裕で生活できる自信がある、とかでは別に全くない。無論、今放り出されたら生きていけないだろう。

だけど、別段、「日本」と心中する義理は全然ないな、という割り切った感情がある、ということだ。

 

愛国心」という言葉がある。

愛国心」とか、「愛すべき国」は、「自己内部にある」と、若い時分は確信し、実際そうだったと、『過去形』で思う。

が、今は、「日本」を「自己の一部」、「自己内部」のものとして愛しているというより、もう「自己の外=他者」として愛するようになっているのではないか…

 

そして、そのことは、「強い愛国心」とかその使命感で苦しんだ自分自身を、随分ラクにしてくれている。

「日本」がどうでもいい、とは少しも思ってない。そこに数多ある社会問題も。

が、自分は自分、日本は日本、と割り切れるようになった、とでもいうのか。

言ってみるなら、「自分」と「日本」との間に、「個人主義的割り切り」が出来たのだ。

「アイツはアイツ、オレはオレ」と。

 

とすると、今後、自分が取り組む問題は、「自己内部の問題」というよりは、「外にある社会問題」に取り組んでいく、ということなのだろうか…?

そのテンションが、今はまだ分からない。だから、この記事を書いて、少し整理してみた。

 

「自分の生」にも「当事者性」を持ってないのか。

そこも、若干ありそうな気がする。

良くも悪くも、余裕が出ているからなのだ。

「楽しく、享楽的に」人生を送っているし、元来そういう性格でもある。

 

数年前にわけもなく駆り立てられていた、「焦り」がなくなった。

今は、武器が揃いつつあるし、やるべきことを、着実に前に進めている実感がある。

にもかかわらず「当事者性がない」とはどういうことなのか。

 

何でも斜に構えて物事を眺めるのは、子どものころからの習癖だ。

そして、今後も変わらないだろう。

といって、常にその構えで「何でも他人事」、という訳でもない。

厳しく対峙できる相手とは対峙できる、と自分では思っている。ただ、準備や戦略なしにはそうしないだけで。

 

その「相手」が、今はぼやけているのだろうか。

違う。

相手も、闘い方・戦略も、見えているし、今はっきりしてないのも、見えるようになってきている。

 

「人間」とか「人間社会」全体が、どうでも良くなったのか?

それは、今に始まったことではない。

昔から、「反人間主義」は変わりはない。

今はむしろ、前向きになったといえる。

 

前に「SDGs的退廃」について書いた。

昔、小林よしのりは、平成日本を「けだるい平和」と書いたが、今のSDGsを貪る世界は、まさに同じと言えないだろうか。

冷ややかな見方かもしれないが、自国が戦場にならなければ、ある程度原油高・物価高が進んで不便になったとしても、欧州諸国とて、所詮は「対岸の火事」ではなかろうか。

だから、いくらでもSDGsイデオロギーを、心行くまで堪能できるのである。

 

自分自身も今、そうした「退廃」に陥っているかもしれない。

頽落的かつ享楽的な生活を貪ることによって…

だからといって、政治的・社会的問題関心が、単なる知的スポーツの対象、おもちゃということは、もちろんない。

 

今の自分自身に、「苦しんでいる社会的現実」はない。そうした人々も、目前にはいない。これは、「事実」として認めねばならない。

認識しているのは、「外の社会問題・政治問題」しかない。

取り組もうとしているのも、所詮はそうなのだ。

 

たぶん、「これでいいのだ」と(バカボンのパパのように)思う。

社会起業家の世界に、「気づいてしまった者の責任」という言葉がある。

「社会問題は、それに気づいてしまった者が、取り組まなくてはならない」という考えのことだ。

実際、自分個人として気づいたことは、色々あって、それに取り組もうと準備もしてきている。

しかし、少し違うのは、「自分の生活や人生の切実感・切迫感・危機感から」それに取り組むということではない。

どの問題にしても、「知的に、自分から突き放したところから」取り組む、ということなのだ。

そして、それが重要なことだと考えているのである。

 

「苦しんでいる人」が目前にいたとして、(「手を差し伸べる」前に)それを救う・救えるのか、という現実を考えてみる。

そこで、自分の場合は「最低一瞬は、立ち止まって考える」。

「自分に何が出来るのか」ということについて、緻密に考えるということなのだ。

その人が、何がなくて・できなくて苦しんでいるのか。食べ物か、住まいか、医療か、仕事か、教育か、言葉か、はたまた他の生活インフラか。

それに対して、「自分が提供できるものがあるのか」、客観的な眼から眺めてみる。

自分に無ければ、提供の仕方や提供可能な主体を調べて、誘導してあげるのがいいか。

それがなければ、自分が代りに作ってあげるのか。

 

「自分」とは、このような存在なのである。

「当事者性」がないのではない。

「自分が役に立つのか」客観的に考えたうえで、「自分しかできない何かがあるなら」そこで何かをするだろうし、他にそうした存在がいるなら、敢えて自分がやる必要もなく、ただ案内や紹介をすればいい。

 

今の世界は、「何かの貧困や飢え」で苦しむ人々が、確かにいる。死に至らしめられる人すらいるだろう。

が、豊かな社会では、それらの人々に、手を差し伸べる人々もいる。それが十分な質量を伴っているかは別として。

その質量を高めるために、何かを考えなくてはいけない。そこで提供できるものがあれば、提供すればいいのではないか。これも重要な役割と言えるだろう。

 

人生は長いから、「〇〇のために生きる」と決めることはない。

自分なりに決めているテーマは既にあるけど、それも、たぶん、これからの人生でクリアする中で、別のテーマへと発展していくことだろう。

 

だからといって、「命惜しみ」も別にしていない。

まだ遠いと思っているだけで、かっこいい「死に場所」に憧れたりすることもある。

どんな「死に方」がいいかな、と。

ただ、「自分の死」にふさわしい「死に方」「死に場所」でないと困る。

この「死」なら自分の死でなくてもいいでしょ、ということはあるかもしれない。

もっとも、普通に老衰で死ぬこともあり得るとは思うけど。

 

「退廃」している面もあるけど、「何事に対しても余裕をもって突き放す、知的構え」は、あらゆる事物に対して、今後そうであり続けるのだと思う。

それが自分自身であるということもあるし、そのような構えでなくてはならないとも思う。

「情熱」がないのではない。

「傾けるべき時と対象」を選び抜いている、ということなのだ。