セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

【自己責任論への応答】ハイハイ、無能ですいませんでした👅

筆者らの世代は、「構造改革の申し子」「自己責任論の申し子」世代といっても過言ではない。

 

「自己責任論」というのは、今なお、日本社会や政治の公的な言説や政策としても、極めて根強く遺った考え方であると感じる。

筆者自身も、100%ではないが、その考えを肯定的に受容している部分もある。

が、全てではない。

 

最近は、「自己責任論」というものに対してどのようなスタンスを取りたい・取るべきか、ようやく見えてきた気がしている。

といって、言語化できるほどにがっちり考えが固まっている状況ではないが、ここで、その重要部分を整理してみたい。

 

シンプルなのは、

1自分自身が生きる指針として信ずる分には、「自己責任論」は有力であること

2「自己責任論」を唱導したり、強いたりしてくる個人や社会は、信用に値しないこと

である。

 

そして、「実践」上、何より重要なのが、

3「相互扶助」「絆」「助け合い」などを唱導したとしても、余裕や準備が社会やその主体になければ、実現は不可能で、掛け声倒れになる

ということだ。

 

日本社会は、次第に「弱さ」「失敗経験」「弱者・少数者」への寛容度やコンプライアンスを高めている印象はあるが、依然いわば「まだら模様」の状況であるし、社会そのものの余裕が低下する中では、政治やメディアなどが大きく公的な旗を振っても、必ずしも世間のほうが十分に追い付いてこれない、というのも普通に見られる。

 

ただ、最近は「民(民間)」が自主的に担う「社会(ソーシャル)」なセクターも、日本でも随分成熟したな、との印象を持つことも多くなった。

10年ほど前は貧弱だったが、震災・災後や、SDGsの流れが日本社会を加速させたのは間違いない。

特に、昔は、NPOとかボランティア、ソーシャルセクターに携わる人は、(今でも多いとは思うのだが)「善意」という(ともすると押しつけがましい)「主観」に満ちた人の独壇場という印象が強かった。

最近は、企業や企業人が、そうした活動に「生活の一環として」コミットするのが自然になってきている。

それ故に、かつては脆弱だった「頭脳」「物的・財的資源」が次第に強化されてきている、と感じている。

だからこそ、個人的には、日本社会に「絶望」してないのだ。

 

と言って、(人や社会に押し付ける)「自己責任論」も、依然として根強い。

が、筆者はあるとき、「そうした人たちと付き合ったり、接点を持つ必要自体無いじゃん」と気づいたのである。

存在は認識していても、別に、「自分との関係はない」。

頭を下げたり、無理に理解してもらおうと引きこんだりする必要自体がなかったのだ。

 

「逃げ」と取られても別に構わないが、その手の人々と、「議論」や「討議」をする意思は別にない。

「時間のムダ」だし、「自分の役割ではない」からだ。

そうした役割は、メディアや政治界隈の人に委ねればよい。

 

また他方で、筆者は、いわゆる「左翼」(サヨク・リベラル・リベサヨ等、呼び名は何でも良いが)的な人々とも、歩みを共にしようと思わない。

担いたいのは、自主的な「民間」のセクターだが、無能かつ胡散臭く、衰退し行くことが明瞭な、既存の政治勢力に近づきたくはない。

(政治への関与そのものが無意味と言いたいのではなく、既存の政治勢力が無力で無能で関与に値しない、という趣旨である)

これについては、本筋から逸れるので、いずれ別の機会に詳しく書きたい。

 

だが、自らが、そうしたセクターを担うためには、それだけの「力」が要ることは自覚している。

「力」のない段階で、中途半端に「弱者」への同情?正義感?めいたカンチガイの感情から、変に手出ししたくはない。

「無能な善意は有害無益」が信条だからだ。

が、相応の「力」が持てれば、話は別だ。

 

「語り得ぬものに対しては沈黙せよ」という、ヴィトゲンシュタインの言明がある。

「力が出来たなら」、「有言実行」しても良いだろう。

それがない段階は、ひたすら沈黙を守る。

「何もできない、無力な自分」には自覚的だからだ。

 

「無能」でけっこう。

自己責任論者に対しては、その間は、腹の中で舌を出していればよい。

別に、直接の接点を持たなければ、(内心イライラはしても)不快な経験をすることはない。

その期間が、長くて苦しかったことだけは、率直に認めねばならないけど。