取引先の、割と気の利く営業の若手社員がいたのだが、先月いっぱいで退職した。関連だが別業界に転職するという。
しかも、人件費高騰のあおりで欠員補充の見込みは当分なく、その上司が直接の担当になるという。
いい若者(というより取引先では唯一のまともな若者)だったので、ショックは大きかったものの、同時に、「泥船」の業界であるのは明瞭なので、若者が将来を選択できるうちにまだマシな転職を果たせたこと自体には、安堵感を覚えるという複雑な感覚だった。
少子化の影響が、社会の中にはっきりと出てくるようになり、それまで求人に困らなかった業界も、完全な売り手市場に転じたことで、ようやく余裕ある大手企業主導ではあるが、賃金上昇トレンドが現れている。
一方で、余裕の無い中小企業では、そのような余力はないようだ。
今後は、そのような泥船業界や企業からは、人材流出と求人難が一挙に加速するだろう。
おまけに、日本社会の頼みの綱であった外国人実習生からすら、円高トレンドで日本がまるごと見放されていくという、皮肉かつ痛快な流れとなっている。
自覚症状が出るまで、いや出てからすら、何もしない・できないという、日本人と日本社会の「宿痾」というものが、この「少子化による社会全体の人手不足」という現象に集約されている。
一方でまた、「泥船から脱出できる人とできない人」「人手不足でも人材を集められる企業・業界と、集められない企業・業界」に、完全に二極化していく。
「泥船から脱出できない人」というのは、いうまでもなく、もう若くもなく、転職・転身に当たって売りにできる能力や実績などが希薄な人々である。
泥船の企業・業界というのは、そうした人材と組織の、いわば「共依存」関係のもとで辛うじて維持(?)されていくという、絶望的展望が待っている。
いや、そこにはAI化・DX化の余地・ニーズが明瞭化されるという意味では、むしろ「福音」なのだろうか。それでも、AI化・DX化できるだけの余力の有無という点での「格差」は現れてくる。
人材不足というのは、効率とか収益重視で労働者を一方的に搾取する構造が改められなかった、日本の社会環境を健全化する効果があるという点では歓迎すべき面もある。
そこまできて、「労働環境を見渡し、自省できる企業・業界と、自省できない企業・業界」という、「最後の格差」が現れる。
それも不可能な企業・業界は、必然的に淘汰ないし廃業という流れしか待っていない。
ただ、筆者は、だからこそ、日本社会には、実は明るい展望やその兆しがあるのでは、と最近は捉えるようになっている。
「収縮した日本社会・経済で、『人間らしい生活』が出来る地域や業界・企業のみが生き残る」といった形態に、次第にバランスされていくのではないだろうか。
日本社会に対しては、「少子化」単体をキーワードに捉えれば良くなった。
複雑巨大な社会を、シンプルに捉えることが可能になった、という点で、ポジティブに捉えているのである。