セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「人はいずれ死ぬ。だから~」陳腐な実存主義の退屈。笑

たまにこの手の言説を弄する人がいて、昔から「退屈」だと感じていた。(単に「実存主義」と表現した。理論的に厳密じゃないかもしれないが便宜としては使いやすい)

「死」は誰にも訪れる、その点では「陳腐」な現象、あるいは事実だ。

だからこそ、「何でそれをわざわざ言う必要があるの?」という必然性がわからない、ということに尽きる。

残り時間が「余命◯日」等、著しく限られているならわかる。

が、その手の言説を弄する人の大部分はそうではない。

「死」とか「死の瞬間」を意識する必然性は、実は特にないのだ。

 


得意な「穿った見方」かもしれないが、それらの人々にとって、「本当の」問題は「死」ではなく、「若さ」とか「健康」、或いはその期間に何をしたいか・できるか・得られるか、ではないか、と見ている。

なぜそう感じるのか。

その手の人々は、実際には「死」は無論のこと、「老い」についても「病」についても、さしたる知見も想像力もないように見えるからだ。

「未来に目がける」ように見えても、実はピントを合わせることは能力的に出来(てい)ない。

だけれども、「死」だけは、誰にとっても否定不可能な明確な事実だ。

だから、それに至るまでの曖昧模糊な未知の不安までをも引っくるめて、「人はいずれ死ぬから」でただ逃げているのではないか、と勘ぐってしまうのである。

 


「死」を意識しようがしまいが、「生の時間」は与えられる。

無論、「死」を意識したほうが、長期的な人生のプランを立てる際に便利という面はある。

が、「死」のタイミングを厳密にコントロールするのは、(自殺他殺やそれに準ずる手段に拠らない限り)不可能だ。

 


また、「死に向かって◯◯」ということでなく、「こんな死に方で死にたい、そのためには、予め△△が必要だ」という、「望むべき死に方から逆算して必要な生き方」ということなら理解できる。

「死に向かっての準備」は、生前にしか行っておくことはできないからだ。

だが、それ以外では、「やりたいことをやる」ことと、「その人の死」とを結びつける必然性は恐らくない。

(たぶん、普段、余程挑戦したり人の反対を押し切って意志を通す勇気や度胸のない人が、「ハッタリをかます」意味で、いきなり「死」を持ち出して脅かしに使っているだけだろう。笑)

 


最後に結論をもう一度繰り返しておこう。

やりたいことがある人は、勝手にやればいいだけだ。そこに「お前の死」は関係ない。

「死」以外でも、個人と人生のフェーズに応じて、何らかの「制限時間」が課される人はいる。それもその時間を意識すれば良いだけだ。

現代人の生は長い。「死の瞬間まで」暇つぶしを考えておく必要がある。

目が悪くなる・耳が聞こえなくなる、物忘れが酷くなる、身体が動かなくなる、その状況に合わせて、やりたいことの準備は必要だ。

 


他のリソースならともかく、「勇気がなくて」やりたいことが出来ない奴は、ダサいとしか言えない。

それを動員するロジックとして、「死」は「必要条件ではない」。

人生の時間は、ある程度「交換可能」な部分があるからだ。(「人生は一度きり」だとしても、「同様のチャンス」は唯一ではない)

それが想像しづらい内閉した人生の時間を送っていると、「死」を持ってくるしかない、或いは人の説得には使いやすい、ということに過ぎないのだ。