セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

ギャンブルより「カネを溶かす」テーマパークの恐怖。

周囲の子育て愚痴を聞いていたら、「子どもの修学旅行でテーマパークに行くのだけれど、小遣いの相場が8万円(!)」と聞いて驚いた。

尤も、驚いているのは、(子育てをしてないだけでなく)単に世離れした生活をするようになったからに過ぎないだろうが。(また、家庭の所得階層によっても、そこへの驚きの有無というのも異なるだろう)

 

テーマパークに行った記憶は遥か遠く、10年以上も昔の学生時代の彼女と、ネ〇公〇ー(こう書くとさすがに何のことかわからない笑)に行ったきりゆえ、今の相場観というものも当然ない。

ただ、その時も(当方デート代全持ちで)4万以上「溶かした」記憶は、しっかり残っている。1日中遊んだが、そこらじゅうで、バキュームカーのようにカネを吸い込まれていった。誕生日か何かの記念で行った気がする。もちろんそれだけの腹積もりや準備は当然していたのだが、カネのない学生時代とて、「搾り取られた」感は、しっかり残った。(無論彼女は喜んでくれたのでそれはよかったのだが)

 

類推するに、政権与党の背後に「観光利権」があり、「修学旅行」と「学生たちの思い出作り」を楯に、全国の親たちがテーマパークに搾取されるような、何とも嫌な気分を覚えたのである(子育てしてないので直接は関係ないけど)

 

問題にしたいのは、最近はしばしば議論されるようになった「テーマパークという思想」だ。「テーマパークに行かないと作れない思い出」ってそもそも何なの?「思い出作り」そのものが、単に商品・サービスとしてパッケージ化されてるだけやんけ、という(「学校」そのものがそういう装置という見方もできる)。

「思い出」といっても、実際はカネを払ってハコのなかに詰められてボン、と出てくるものに過ぎない。それが「テーマパークという思想」だ。

 

タチの悪いのは、「思考停止」と、「めったにできない体験」というのがセットにされているということ、そこに、巨大資本がうまくつけ込んでいること、さらにはそれがある部分では政治利権化し得るということである。

(親や学校、あるいは子どもにしてみれば、プログラムを自分で考えるより)「どこか特定の場所に行けば、質の高い思い出作りが保証される」し、また、特に地方の学生にしてみれば、故郷と離れた大都市圏に行くこと自体がめったにない経験だから「多少カネがかかっても折角だし仕方ない」という心理が働きやすい。いわば「思考停止」料、「プログラムのまるごと外注」料として、テーマパークの高額な対価があるとするなら納得せざるを得ない。

 

「修学旅行」では「思い出作り」は何より大事である。それ自体は別に構わない。ただ、それは何によって・どのようにして、であるのか。結局「カネにモノを言わせる」ことでしか、「人並みの真っ当な思い出」をつくることはできないとしたら、それができないから惨めというより、そのような社会・文化構造そのものに少々問題があるのではないのか。

テーマパークは確かに楽しい。財布を誰かがまるごと持ってくれるのであれば笑 だがその「誰か」は誰なのか。修学旅行では当然「親」である。それだけの負担で、親が「是」としているのであれば何ら問題はない。

ただ、そのニーズに乗じて、あくどい搾取の機構が設けられてはいないか。

この批判的視点が欠けている限り、変わらず苦しい思いをする「親」は跡を断たないだろう。