セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

シー・セッド(2023)

#metoo運動の着火点となった、ハーヴェイ・ワインスタイン事件をめぐる、ニューヨーク・タイムズ記者と女性たちの苦闘の物語。

 

見ている最中は、観ているこちらもグルグルと色々な苦悩が内面に駆け巡っていたが、バシッと霧が晴れた瞬間が見えた。

自分自身に果たせる固有の役割というものが見えた瞬間があったのだ。

それについては最後に改めて述べる。

 

 

見ている最中にどんな苦悶が駆け巡ったかを、整理しよう。

・#metoo運動当時の自分の回想

 かつての職場(おっさんたちが支配していた)のハラスメント環境を再認識し、ツイートして、少し気持ちが晴れた記憶がある(必要なら、別の機会にいずれ詳説するかもしれない)。

・かつて、ハラスメントやその環境に加担していなかったかという回顧と自省

・性犯罪に至るやり取りの気持ち悪さと苦しさ。

 また、#metoo運動勃発当時、日本の有名メディアクリエイターの「告発」を忌避するコメントに強い不快感を覚えたことも思い出した。

・加害者側の「進化(成長)を見てほしい」という常套句。

 近年も、吉本興業ジャニーズ事務所会見で聞き覚えがある。

etc.

 

当時は、火付けとなったこのニュース自体もちらと聞きはしたものの、余裕も深い興味関心もなかったので詳しく調べたりはしなかった。

恥ずべきかもしれないが、ワインスタインの事績や収監の事実も、今回wikiで調べて初めて知ったほどだ。

 

 

被害者側の「沈黙」、なぜ沈黙するか、その沈黙がどのように人間、そして社会を破壊するか、ということも可視化された点で、素晴らしい映画でありドキュメントだった。

性犯罪とは全然違うが、(ハラスメント環境による)「沈黙」を長く強いられた覚えがある。

G.スピヴァクは「サバルタンは語ることが出来ない」と書いたが、それを突破することは可能であることを示唆したと言えないだろうか。

 

日本でも同時的に、日本社会独自の#metoo事件の火付けとなる女性ジャーナリストレイプ事件が勃発した。

あの事件は日本社会を変える一つの起点になったには違いないが、構造的な女性差別は広範かつ根深いために、その衝迫力は部分的なものに留まった面も否めない。

(映画内でも、NYタイムス記者たちが、セクシュアル・ハラスメントを告発してもトランプ当選を防げなかったことの無力感に苛まれるシーンが描かれる)

 

安易なアナロジーは控えるべきだが、先ほどの「沈黙」について今の自分なりに整理したい。

これは、ハラスメント・いじめ被害固有の状況・心境として共通のものと言えないか、と考えるからだ。

・苦しさを吐き出す先がない。

 吐き出しても、かえって自分のほうが責められてしまう。

 個人的にも社会的にも、執拗に直接間接の攻撃に合う(「セカンドレイプ」)。

 また、それで初めて「構造的差別・暴力」の連鎖を知り、根源的に委縮する。

・差別と暴力が構造的なため、自分個人で解決策を見出すことが出来ない(「無理ゲー」である)

 探そうともがけばもがくほど、却って加害者や加害構造に足を絡めとられる「蟻地獄」にハマっていく。

・苦しみから逃れるための何らかの「妥協」で、その吐き出す先や吐き出し方を、喪い、そのことで更に自分自身を責めつけることとなる。

・人生そのものと時間を喪う

 場合によっては、家族・仲間を巻き込み、その人生も狂わせてしまう

・反面、加害相手は平気な顔で何の傷も受けずに社会に盤踞している。

 その「世界」を見ることすら嫌になってしまう

・暴力により、脳構造・思考そのものが破壊されてしまう

etc. 

 

なぜ解決策を見出すことが出来ないか。

本作でも指摘されているが、「法そのものが、加害者を守るようにできている」からだ。

記者たちは、ワインスタインが示談により被害者に沈黙を強いて、彼の「性加害の追認環境」をどのように構築しているかを暴き出した。

 

自分が固有の役割を見出したのは、まさにこの点だったのだ。

すなわち、「法」そのもののあり方ということである。

 

日本では様々な犯罪の犯罪被害者たちが、「犯罪被害者に寄り沿う法のあり方になっていない」ことに気づき、問題提起を行うようになった。

それに対し、法学者は「法というのはそのような性質を持つものではない」と素っ気なくあしらう訳だが、「法学」そのものの内在的視点からはそのように回答せざるを得ないこともわかる。

「法のあり方」そのものは、「法改正」「法学」という既存の制度・ルール内に随うだけで見直すことは不可能なのだ。

「法のあり方」については、「法・法学・法制度」「社会」構造の根本に切り込んだうえで見つめ直し、必要なら新しいものを再構築するのは「哲学」の役割なのである。

日本の「法のあり方」に制度疲労を起こしているのは、無論、犯罪被害者に対してだけではない。

 

せっかくなので、さらに踏み込んで進めよう。

フェミニズムは、「批判」そのものが目的の運動であり学問に過ぎず、「法学・法制度」の差別・暴力構造を暴露・批判することまではできても、「法のあり方」そのものを提出する役割も能力も持っていないのである。

「法のあり方」においては厄介な問題があるが、それがまさに「男性支配」の社会・法制度構造ということだ。

裁判官・弁護士など法曹全体でみれば、女性の比率が少しずつ上がっているのは確かだ。

しかし大学法学部、検察・警察・法務当局、何より国会議員全体の女性比率においてみるとどうか。(大学教員・官僚・政党総体の問題として捉えてもよい)

そして、法構造そのものの問題である。憲法(無論「日本国憲法」である)をベースとする日本の法体系に遺制として残存する「家父長制」構造にメスを入れられているか。

こうした「法と男性支配の構造的共犯関係」は、(「日本国憲法」の「基本的人権」原理を内在的起点とするフェミニズム単体では)突破できないのである。

だからこそ、自分は、上のような固有の視点で「応答」したい。

 

映画内容から逸れるようで逸れてない感想となってしまったが、自分の「知情意」を同時に解き放ってくれた作品となったのだ。