セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「人手不足の昂進」が、「搾取限界の天井」に達したこと

「人手不足が日本社会を崩壊」させている、ということが日々報じられるのみならず、経営・労働・消費のあらゆる局面で、各人が「当事者」として実感されるものにもなった。

まだ、完全な「人手不足の頂点」に達しているというほどではないにせよ、これからさらにあらゆる業界・あらゆる現場で「極限状態」へと突進していくことになる。

恵まれている業界業務や地域と、そうでないところとの格差が極大化していく。

 

個人的には、このことは非常に好ましいことだと考えている。

基本的には「人手不足」の「売り手市場」で、「まともでない職場」は選ばれず、淘汰されゆく運命となるからだ。

現に、近年は「人手不足倒産」も珍しい現象とは言えなくなった。

働き手から選ばれるためには、「真っ当な賃金、真っ当な労働環境」を整備しに行かなくてはならない、という当然の環境条件がようやく整いつつあるということなのだ。

 

しかし片方で同時に、(もっぱらサービス業中心ではあるが)片端から辞められてしまって回らなくなり、残った人員で職場を回さねばならずに一人当たりの業務負担が増して生産性は低下、そして稼働率が落ちて業務自体が縮小する、といった事態も加速している。

労働力の奪い合いは、「経営体力×先行きまで見据えた(賃金含めた)雇用環境整備」の過酷な競争に突入してきた。

保たないところは、縮小均衡→タコの自足の食潰しで自らの「余命」時間を切っていくか、「回せる人たちだけで細々回す」のを続けられるまで続けていくことになる。

 

90年代の大蔵省不祥事、あるいはバブル前辺りまでは、「日本の官僚と官僚機構の優秀さ」が喧伝されていたことは歴史的に知っているが、コロナ禍以降は、全くそれが想像できなくなった。

東芝が「チャレンジ」と称する実現不可能な経営目標を課したことで粉飾決算に手を染め自壊したことはよく知られる。

しかし、これは、ゼロ年代以降の構造改革の必然的帰結と見ている。

「デフレ下のリストラされた痩せた組織×目先の利益追求のみ」の条件下では、「残された資源と人員を極限まで使い倒したうえで自ら食潰す」しかないからだ。

成功して収益を集め、恵まれた環境を提供できる一握りの「勝ち組」の企業や組織以外は。

 

しかし、皮肉抜きにこれでいいのではなかろうか。

人手不足で日本社会は、壊れるだけ壊れてしまえばいいのだ。

老子の「大道廃れて仁義あり」という好きな言葉がある。

人手不足の極大化で、維持できなくなる業種業務や地域は確かに出てくるだろうが、それはまさしく彼らの「自己責任」というやつではないのか。笑

ここからは、上記の「勝ち組」企業や組織以外に、「先の経営を見据えて、真っ当な労働環境を整備する」真っ当な会社や組織が、少しずつ、しぶとく生き残っていくのではないだろうか。

それ以外は、「構造改革のもたらした荒涼たる競争社会」に破れ、経済の摂理に随い死に行く運命にあるのだ。

 

まあ、それで「日本社会総体」として生き延びれるものと言えるのかは知らんけど。笑

 

(「負の企業経営者・組織×負の労働者」という「負のゾンビ的共依存」は依然抜きがたく続いていくだろうし、それはそれ自体として大問題なのだが、それは別論としたい)