一応「モテ論」と付したが、別にいわゆる「モテ男子」でもない筆者がこれを論じるのも変な感じもある。
とはいえ「セックスプア」でもなく、「非モテ」属性という訳でもない。
以前も少し論じたことがあるが、「モテ/非モテ」という議論の仕方自体も、差別的・特権的な概念や用法に基づくものかもしれないが、依然その部分の文脈は押さえていない(怠慢や無関心なのではなく、既存の議論を参照する前に、もう少し自分の視点を詰めておきたい、ということ)。
「モテ/非モテ」という概念に対して、ある程度突き放した見方はできる。
といって、別にいわゆる「モテ術」を披露しようというのではない。
そんなものはネット上に溢れているし、第一、筆者に独自のものがあるというのでもない。
(前も書いたが、筆者は、主観的に「モテ願望がない(=モテたくない)」というスタンスを持っている)
ここでは、女性がよく主張する、「清潔感」という概念について論じたいのだ。
女性が男性を見る際に、「清潔感」を見る、というのはよく見聞きする。
まあ確かに、と思う一方で、「うーん…」という感じもある。
この「清潔感」という概念や主張を、「男性側として」どう捉えるべきなのか、というのを考えてみたい。
女性の主張に耳を傾けてみるとこうだ。
「男性というのは、身だしなみとか服装、外見面で想像以上に不潔・不衛生な人が多い。それを改めてもらえるだけで、最初のハードルはクリアされる」
というのは、一つの最大公約数の意見として集約できるのではないか。
難しいのが、「清潔感」というのは、「必要条件」である場合と、「必要十分条件」である場合と、両方が含まれるように思われることなのだ。
「清潔感」のいうのは、曖昧さを含んでいるし、幅の広い便利な概念としての側面もある、ということだと捉えているのである。
確かに、外見面が不潔・不衛生なままで、女性の前に現れる男性が多く、その人たちがその時点で(女性の内心で)「不合格」とされるだろうことは容易に想像がつく。
しかし、「それ(=外見の清潔さ)だけなのか」というのが、ここで行うべき重要な問いなのだ。
「清潔感」というのは、確かに、女性側から要請する概念の「最大公約数」としては便利な概念だろう。
ただ、男性側にとってみると、やや「説明不足」というか、「不親切」な面もあるな、とも捉えているのだ。
(このような言い方をするとまた「差別的」と取られてしまうだろうが)「清潔感」というのは、「その相手とのセックスを受け入れられるかどうか」の最初の条件、と見ることが出来る。
ただ、当然ながら「男性観、その受容条件」には当然女性により個人差がある訳で、「清潔感」に、どこまでの意味合いや範囲を込めるのか、ということになる。
一つ筆者が考えるのは、「安心感」だ。「(初めて会った)その先を見てもいいよ」という(または相手が見たいと思うよう仕向ける)メッセージを、言外に、雰囲気として与える、ということである。
そこまで行けば、「清潔感」の最低限示すところの「必要条件」を超えて、「モテ」に近づくことができるだろう。
(ただし、「安心感」が「友人」とか「家族」の与えるものと同じでは困る。「異性として」のそれでなくてはならない)
次に、反対に今度は、「非モテ」の視点に即して考えてみよう。
「非モテ」=「清潔感」がない存在、ということなのだろうか?
「清潔感がない」は、「非モテ」を構成するあくまで一要素に過ぎない、と考えている。
「清潔感がない」は、結果論というか、(「非モテ」を)観察した結果の一つに過ぎない、ということだ。
筆者が考える「非モテ」とは、
1女性の、「自分に対する批評」を受容していない・できてない
2自分の「世界観」を重視し、そこに閉じてしまっている
存在である。言うまでもなく、この2つは表裏一体の要素だ。
女性とやり取りしていると、結構ポンポンと遠慮ない批評を(自分に対してだけではないが)投げかけてくるものだ。
ただ、「非モテ」が「自分の世界観」に内閉したままであると、「傷つきやすい、脆い」ままで、そうした批評を容易に受容できないどころか、ムキになって否定したり、逆恨みして攻撃しようとすらするかもしれない。
「非モテ」を突破するには、女性の批評を受容し、自らの閉じていた「世界観」から抜け出るしかなく、また「そのこと」を客観的に認識できるようになるしかないのだ。
「自分を守りたい」という心性が強すぎると、そこから永遠に抜け出せないスパイラルにハマる。
「清潔感がない」という女性側の批評も、正しいだろうが抽象的だし、抽象的にならざるを得ない事情もある。
女性側に常に、男性に対して正確な批評を下す権利や義務が与えられているわけではない。
大して知り合う仲でもない場合は、傷つけたりトラブルになるリスクもある。
しかし、抽象的である限り、男性の側が、その意図するところを正確に理解できるとも限らない。
むしろ、「女性の本音を引き出せる」ようになったとしたら、その男性は既にもう半歩か一歩は踏み出せている筈だ。
自分の殻を破り、「相手の本当の声」を求めに行っているからだ。
では今度は、「モテ」とは一体何か。
こちらは割とありふれた回答となってしまうが、「相手や場の空気を読んで、ニーズにしっかり応えられ、むしろ相手の望む方向にエスコートできること」。
「如才なさ」。即ち、優れた営業マンの特性と同じだ。
「相手のニーズを把握して、それ以上のものを提供できる」こと。
※余談?にわたるか分からないが、筆者が「モテ願望がない(=モテたくない)」と述べたことについて触れておこう。
筆者は、上記のような「モテ」人間になりたくない、ということなのだ。
自分の気持ちとしてやりたくないということと、それで人に余計に寄って来られても困る、という両方の理由がある。
ではなぜ「非モテ」でもないのか。
上で述べた、「女性の批評」を理解して取り込めるということが一つ。
(こちらが会いたい)相手のターゲティングが明確であること、上で述べたうちの「安心感」を演出するややニッチなワザを習得している。
要は、ややマニアックだが「成功するマーケティング術」を持っているから、と言えばいいだろうか。
随分と長く論じてしまった。
「モテ/非モテ」とか「清潔感」というのは、重要な割に、抽象的になってしまう傾向があると捉えており、その概念の「奥行き」を展望し、それらの関係性も論じてみようというのが、今回の試みだった。
うまくいったかは分からない。
より混乱を増しただけなら申し訳ないというよりない。
(感想等あれば歓迎します。応えられるかは分からないけど)
また、今回はもっぱら「女性→男性」を眺めるベクトルなので「清潔感」がキーワードとなった。
「女性の非モテ」の場合をどう捉えるかについては、これは個人的にあまり関心がない。ただ、どのような相違があるかや解決策がもたらされるのかは、少々興味がある部分ではある。