セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「Re:上野千鶴子」に先立って…

kindle unlimitedのレコメンドから、岩波現代文庫に収録された上野千鶴子の初期の重要作が扱われていることを知った。

この機に、他のフェミニズム書と併せて本格的に再読意欲が高まっている。

 

学生時代も、上野千鶴子はちらちらと読んではいた。

ただ、学生時代は、以下のような条件の制約から、深堀りはせず、当時の時論的に分かりやすいフェミニズム言説を、表面的に・教養的に摂取するに留まっていたように思う。(#metooなどでフェミニズム言説が一般に膾炙するだいぶ手前の時代)

・「社会学」そのものへのスタンスやアプローチを掴みかねていたこと

 また、当時は他の学問分野を固めることを最優先していたこと

・「慰安婦論争」を通じての、「フェミニズム」への反発と警戒感

・「フェミニズム」の方法論や語り口が、「文学的批評」「精神分析」に偏っていることへの違和感

・また、上野千鶴子の理論的に依拠していた「マルクス主義」的社会学理論そのものの古臭さと無意味さ

etc.

 

前に書いた通り、現在はある程度「フェミニズム」「男性学」へのスタンスが固まっている。

自分自身の「社会学」に対するスタンスとアプローチも同様。

フェミニズム」を固め直そうとしているのは、主に「実践」的目的に依っているが、他の諸学・思想分野との関係性を包括的に整理したい、との動機もある。

 

少子高齢化」の行く末が、コロナ禍を契機に急速に可視化され始めた。

著者なりに、日本社会に対して、やりたいアクションというものがあった(し今も別にやらないことにしたわけでもない)が、その企画性もすぐに陳腐化されてしまうのかもしれない。

が、「social」な目的というより「private」な動機から考えていたことであり、別に考えたり準備する内容がすぐ無駄になるということは恐らくない。

そしてまた、2010年代は生活で忙しくて棚上げしてきた社会事象の再観察も、ある程度理論に則った上でやり直したい。

 

2010年代後半以降辺りから、恐らく日本のフェミニズムも、社会への問題意識浸透とともに厚みをかなり増したと捉えている。

フェミニズム理論・思想の世代移行」が日本社会にも訪れたことは興味深いし、歓迎すべきことだ。

 

学生時代にフェミニズムへの距離感を掴みかねた大きな理由として、「private」なこととして語り口を立ち上げるというその様式に馴染めなかったことが挙げられる。

(当時は「男性学」は影も形もまだなかったと記憶している)

当ブログでは、その一端を試しているが、いずれはそうした言葉も固められていくだろうと想像する。

 

フェミニズム男性学をやるのは、理論的目的ではなく、政治実践およびメディア発信的目的に依っている。

前も書いた通り、自分のスタンスは「対フェミニズム男性学中立」である。

いわば、「是々非々」的スタンスで眺めているが、当然批判的視点ばかりではなく、「親フェミ・男性学」的な観点もある。

というより、「保守中道」を、「親フェミ・男性学」ウィングへと伸ばしたい、というのを、政治的・メディア的な戦略的狙いに位置付けているわけだ。

 

もう一つ、フェミニズムの理論やアプローチそのものへの根源的批判というのも存在している。

しかし、「政治言説・社会言説としての流通性」を考えると、「文学批評」的方法論、中でも(現代となっては、特に「科学的視点では」胡散臭い)「精神分析」が幅を利かさざるを得なかった事情には同情すべき点もないとは言えない、と考えるようになった。

なおかつ、(上野千鶴子が出発時に依拠した)「マルクス主義フェミニズム」的視座そのものも全て「無効」になったかどうかも検証する必要がある。

 

硬い書き方をしたが、フェミニズムも「こういうものなのか」と分かると、かなり楽しく読めるようになるものだ。今は、「趣味教養」として楽しみつつ、マンガや配信コンテンツと併せて摂取していくことを目標にしている。

上野は、その中の「日本の歴史的有力軸の一つ」としての位置づけでいる。