「フェミニズム・男性学に対して中立」の記事の中でも触れたが、筆者の中には、ラディカルな実験的なアイデアはあっても、基本的には概して「中道」、それも「保守中道」寄りに当たると自己規定している。
「変える必要がある、変えなければ」という認識や危機感があっても、「いま、この地点から」変える・変わるよりない、という現状認識が常に出発点になるからだ。
それについては、機会を改めて詳しく書きたい。
しかし、このいわば「中道」路線というのは、望んで、あるいは目指してそうなったのではない。
「不可避的にその立場を選ばされた」、いわば「消極的選択」の結果と言わざるを得ないともいえる。
なぜか。
「保守寄り、リベ寄り、いずれの言い分も分かる(というより『身に染みて知っている』)が、だからこそ、どちらの味方にもなる気はない」からだ。
それは、果たして「中道」なのだろうか?という疑問も当然ありはするのだが。笑
しかし、「どちらの味方にもなる気はない」というのは、「判断や決断を放棄する」ことを意味しない(実際には、長年そうしたスタンスであったことは事実)。
「どちらの味方になる」ことも、全然自分の立場には近くないな、と判断するようになったし、そうである以上、「どちらの話を聞く」必要もないな、と判断するようになった、ということなのだ。
それは、「聞く耳を持たない」とは真反対の立場だ。
「立場や主張はもう分かっているから、これ以上聞く必要はない」ということである。
「中道」というよりは、国際政治的な概念を借りれば、「局外中立」に近いのかもしれない。
事象や社会問題を、「局外者」の視点から眺める立場を取っている。
「『当事者』になることから周到に身を遠ざける」戦略を取ることにより。
これは、「逃避」であり「保身=保守」である。
だから、もしラディカルな改革案を持ったり実行に移そうとしたりしていても、決して「変革者」の立場にはない。
それ故に、「中道」、または「保守中道」と称しているという訳だ。
このような立場を取るに至ったのは、「社会の騒音・雑音」にいいかげん辟易した経験があるからだ。
その手の「騒音・雑音」は、自分の自由の妨げにしかならない。
といって、それらが全部「無意味」という訳ではない。
何らかの主義主張を含む限りは、「適切な距離」を自分自身から十二分にとったうえで眺める・捉える必要がある。
それ故に、上記のようなスタンスを取るに至ったのだ。