セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

ミソジニー(女嫌い)か・「脱却」か?

自分は「ミソジニー(女嫌い)」だったのか?という自問というか疑問を持ったことがある。

確答の自信はないが、(ミソジニーだったとするなら)「脱却」したか、あるいは、「ミソジニーではない」と言えそうな出来事があった。

それは実際、あるいは当然というか「女」絡みの事象だったのだが(残念ながら詳しくは書けないので意味が分からないだろうが)、最初はショッキングな受け止めだったが、殆ど瞬間的に非常にフラットな眺め方を出来るようになったのが、自分自身でも不思議かつ印象的だったのだ。

 

一つ言えるのは、「男女間・男女関係の相互性」を再認したというシンプルな事実だ。

関係というのは、一方が一方に押し付けるのでなく、互いに作っていくし、その過程の連続である。

どちらかが齟齬をそれ以上受け入れられなくなった時点で、その関係は終了する。

 

ミソジニー」というか、正確には「人嫌い」の一面が、筆者にはあるということなのだろう。

どういうことか。

自分は、しばしばカップルや恋愛・結婚関係に用いる、「共同作業」という言葉が嫌いだ。それが出来ないということではなく、何かイデオロギッシュまたはウェットな幻想臭に鬱陶しさを感じてしまう。

 

もう一つは、「男女関係」といった場合に、女性側が例えば相手と付き合うと言った時に、値踏みという点で、「周囲からの相手(男性)の評価」「自分との釣り合い」などを重視することがある。

納得感もある一方で、「タルイな」という感覚は否めない。

「もともとあった人間関係→男女関係への収約」みたいなプロセスに対しては、個人的に面倒臭さを感じるということもある。

本質において、「(自分の活動を最優先したい)個人主義者」なのだ。

 

自分は、少し前まで婚活者のブログなどを好んで読んでいたのだが、最近は殆ど読まなくなった。

ある程度、「答え(見たい事例)が揃った」と感じるようになったのだ。

日本社会では、(子育て・子育て環境を意識した場合に)いわゆる「パワーカップル」による結婚だったとしても、「さほどの幸せは手に入らない」というのが結論である。

決めつけて申し訳ないのだが。

家族願望・子ども願望がある人にとっては必要なステップであったとしても、「幸福度を高める」為には相当のリソース・努力・窮屈さを備えなくてはならない。

そして、日本社会も総体としてそのことに気づいているように見える。

今後は、「結婚」か、「独身」ないし「それ以外の家族やパートナーシップのあり方」かいずれを取るかと問われたら、幸福の有り様を厳しく比較考量し、後者の比重がますます増えるとみるよりない。また、経済社会事情から、消極的にそれを選ば(され)ざるを得ない、選択肢がないというほうが多いかもしれないが。

 

少し逸れてしまったのだが、「結婚」「子育て」というものを考えた上での相手探しや交際・今後のプラン立てを考える場合、互いのプランを突合しつつ、共同計画や関係を構築していくことになる訳だが、その条件突合の作業がハイコスト(ないし無理ゲー)にならないか、ということなのだ。

 

「〇〇活」「●●カツ」と何でもかんでも知識や情報や下準備が必要でそれに大わらわにならないといけないこと自体がダルすぎる。

社会自体も、夫婦・家族関係自体も「大ざっぱに、いいかげんに」過ごしてもいいということが許容されない限りは、結婚も子育てもしようという気にならない。

だから、求めるとするなら、そうした大ざっぱさが許容されるような関係、その範疇内に収まるようにせざるを得ない。

 

自分は「女ぎらい」ではないと思っている。

ただ、「今の日本社会内で、結婚や子育てをしたいと考える女性たち」のニーズを満たそう、という意欲に欠ける(正確にはそれが去勢されている)というだけなのだ。

だから、選択肢としては、別の家族やパートナーシップを求める、(結婚や子育てを求めるとするなら)場所を変える、社会・環境を変えるなどになる。

ただ、そもそも論として、自分の幸福条件の中での優先順位において、「家族形成」は低位にあり、差し迫った必要性がない。

 

また、「女ぎらい」を擁護する訳ではないが、社会学的要因が大きいのではないかとも想像している。

「女ぎらい」になるのは、やはり社会的余裕の無さが反映されたものではなかろうか。

当然のことだが、「与えられるもの」がなければ相互性は成立しない。

「与えられるもの」のないままでは、豊かな経験は積み重なっていかない。

ないままで関係しようとすると、何らかの強制や暴力などを伴わねばならなくなるだろう。

 

アラサー女性の婚活者を描いたマンガで面白かったのは、財産・収入狙いではないかと女性不信に陥る婚活男性に対して、「いい歳になったら強みはそれしかないんだから、それくらい狙われとけよ!って話じゃん」と語っていたシーンだ。

これは正直、現代では男女双方の言い分が分かると言わざるを得ない。

しかし、ここで相互不信となり、婚活不成立・不調となってしまうのは、まさに社会の余裕の無さを反映しているのではないか。

「自分個人を守るのに精いっぱい」なところでは、結婚も婚活も成立しようがないのだ。