セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「恋愛願望」の無さ?考

ミソジニー(女嫌い)か・「脱却」か?」に引き続いて、今回は「恋愛」願望(?)の有無に関して。

※大前提として、自分はいわゆる「異性愛」(ヘテロ)対象である。

 

数年ほど前から、「恋愛」したい、という欲求も願望もないな、ということに気づいた。というより、自己内部を整理した、というべきかもしれない。

結婚とか婚カツというもの(の不要性)を意識したのと同時に出した結論である。

 

 

たまたま、そうした相手にも巡り会わないことや環境とも関わるかもしれないが、それを求める強い意欲や刺激自体もないのだ。

これがたまたまの一次的なものなのか、今後も恒常的に続くものなのかも判断はついてない。

 

 

論理面・感情面両方を整理した結論によるもので、もともとから恋愛が嫌いとかしたくないというタイプだったわけではない。

(これが最近言われる「アロマンティック・アセクシュアル」という概念と絡むのか否かは、まだ詳しく調べてない。知見お持ちの方はご教示いただければ幸いです)

別に「もう恋愛なんてしない」と決めたわけではなく、「今は別に必要ないし、自分から求めに行くこともないな」と判断しているに過ぎない。

 

いくつか、その判断要因・根拠となっていることを列挙してみよう。

・忙しさと、他の自分の活動を優先していること。

 また、それらが今とても楽しく充実していること

・「恋愛の先」(結婚とかパートナーシップとか)を考える諸々の余裕がないし、いまのところその必要もないこと。

・社会的・年齢的プレッシャーの無さ

 (「結婚しろ」「子どもを持て」の類の雑音がない・排除してきたこと) 

・セックスと恋愛は、必ずしも結び付かないこと

・「最適相手」に巡り合うまでのコストと面倒さ

 また、それを探そうともし(て)ないこと。

etc.

 

また、かつて自分は「恋愛コミック」(少女・レディースを問わない)が好きだったが、そちらもめっきり読まなくなった。

それと結びついているか否か、またそうならなぜか、等の自己分析もまだ行っていないままだ。

 

上で挙げた理由を振り返ると、かなり自分の求める幸福条件に照らし合わせて、かなり論理的に出した結論にも見えるが、体当たりというか、直接の経験から自分を知るようになって出してきたことでもある。

 

ミソジニー(女嫌い)か・「脱却」か?でも書いたが、自分は「人嫌い」というか「個人主義者」の側面が強すぎる自覚がある。

そして「恋愛」しようとするなら、それだけの諸々の余裕がないといけないことも知っている。

自分に「相手に構える」だけの余裕があるか、「余り構わなくても平気」な相手を見つけない限りは、恋愛は不可能・始められない、というのが客観的な必要条件と見なせる。

 

もう一つ、「恋愛」はプロセスを楽しむものだが、そのプロセスそのものにさほどの楽しみを見出さない、またはその「結末」が楽しいものだろうか、というところが不確かになっている。

これも「実存」的なものなのか、今たまたま適切な相手に巡り合わないという環境条件によるものなのか分からない。

 

「大切なものを作りたくない」という状況判断も大きかったかもしれない。これこそ「余裕がない」状況を反映していたと言える。今は、根本的に条件が変化した訳というより、その「踊り場」にきたので足場とスタンスをやや見直している、といったところだろうか。

 

はっきりしているのは、今は今なりに人生を謳歌しているし、なおかつだからといって刹那主義に終始し将来を完全に投げているという訳でもない、ということだ。

「恋愛」も可能性を排除した訳ではないが、今は忙しいし、他にも楽しいことが山のようにあり、敢えてそれを求めに行く必要性がない。

 

大人になり、「独りであること」に慣れるだけでなく、楽しむことが普通になってしまった弊害も当然あるだろう。自己理解が行き届く分、他人との「生活リズムのすり合わせ」もより難しくなっていく。

 

まあ「恋愛」というのはどこかに転がっていてそれを求めに行くものではなく、「落ちる」ものだが、それがピンとこないほど遠くなってしまっているということに過ぎぬかもしれないのだが。

 

シー・セッド(2023)

#metoo運動の着火点となった、ハーヴェイ・ワインスタイン事件をめぐる、ニューヨーク・タイムズ記者と女性たちの苦闘の物語。

 

見ている最中は、観ているこちらもグルグルと色々な苦悩が内面に駆け巡っていたが、バシッと霧が晴れた瞬間が見えた。

自分自身に果たせる固有の役割というものが見えた瞬間があったのだ。

それについては最後に改めて述べる。

 

 

見ている最中にどんな苦悶が駆け巡ったかを、整理しよう。

・#metoo運動当時の自分の回想

 かつての職場(おっさんたちが支配していた)のハラスメント環境を再認識し、ツイートして、少し気持ちが晴れた記憶がある(必要なら、別の機会にいずれ詳説するかもしれない)。

・かつて、ハラスメントやその環境に加担していなかったかという回顧と自省

・性犯罪に至るやり取りの気持ち悪さと苦しさ。

 また、#metoo運動勃発当時、日本の有名メディアクリエイターの「告発」を忌避するコメントに強い不快感を覚えたことも思い出した。

・加害者側の「進化(成長)を見てほしい」という常套句。

 近年も、吉本興業ジャニーズ事務所会見で聞き覚えがある。

etc.

 

当時は、火付けとなったこのニュース自体もちらと聞きはしたものの、余裕も深い興味関心もなかったので詳しく調べたりはしなかった。

恥ずべきかもしれないが、ワインスタインの事績や収監の事実も、今回wikiで調べて初めて知ったほどだ。

 

 

被害者側の「沈黙」、なぜ沈黙するか、その沈黙がどのように人間、そして社会を破壊するか、ということも可視化された点で、素晴らしい映画でありドキュメントだった。

性犯罪とは全然違うが、(ハラスメント環境による)「沈黙」を長く強いられた覚えがある。

G.スピヴァクは「サバルタンは語ることが出来ない」と書いたが、それを突破することは可能であることを示唆したと言えないだろうか。

 

日本でも同時的に、日本社会独自の#metoo事件の火付けとなる女性ジャーナリストレイプ事件が勃発した。

あの事件は日本社会を変える一つの起点になったには違いないが、構造的な女性差別は広範かつ根深いために、その衝迫力は部分的なものに留まった面も否めない。

(映画内でも、NYタイムス記者たちが、セクシュアル・ハラスメントを告発してもトランプ当選を防げなかったことの無力感に苛まれるシーンが描かれる)

 

安易なアナロジーは控えるべきだが、先ほどの「沈黙」について今の自分なりに整理したい。

これは、ハラスメント・いじめ被害固有の状況・心境として共通のものと言えないか、と考えるからだ。

・苦しさを吐き出す先がない。

 吐き出しても、かえって自分のほうが責められてしまう。

 個人的にも社会的にも、執拗に直接間接の攻撃に合う(「セカンドレイプ」)。

 また、それで初めて「構造的差別・暴力」の連鎖を知り、根源的に委縮する。

・差別と暴力が構造的なため、自分個人で解決策を見出すことが出来ない(「無理ゲー」である)

 探そうともがけばもがくほど、却って加害者や加害構造に足を絡めとられる「蟻地獄」にハマっていく。

・苦しみから逃れるための何らかの「妥協」で、その吐き出す先や吐き出し方を、喪い、そのことで更に自分自身を責めつけることとなる。

・人生そのものと時間を喪う

 場合によっては、家族・仲間を巻き込み、その人生も狂わせてしまう

・反面、加害相手は平気な顔で何の傷も受けずに社会に盤踞している。

 その「世界」を見ることすら嫌になってしまう

・暴力により、脳構造・思考そのものが破壊されてしまう

etc. 

 

なぜ解決策を見出すことが出来ないか。

本作でも指摘されているが、「法そのものが、加害者を守るようにできている」からだ。

記者たちは、ワインスタインが示談により被害者に沈黙を強いて、彼の「性加害の追認環境」をどのように構築しているかを暴き出した。

 

自分が固有の役割を見出したのは、まさにこの点だったのだ。

すなわち、「法」そのもののあり方ということである。

 

日本では様々な犯罪の犯罪被害者たちが、「犯罪被害者に寄り沿う法のあり方になっていない」ことに気づき、問題提起を行うようになった。

それに対し、法学者は「法というのはそのような性質を持つものではない」と素っ気なくあしらう訳だが、「法学」そのものの内在的視点からはそのように回答せざるを得ないこともわかる。

「法のあり方」そのものは、「法改正」「法学」という既存の制度・ルール内に随うだけで見直すことは不可能なのだ。

「法のあり方」については、「法・法学・法制度」「社会」構造の根本に切り込んだうえで見つめ直し、必要なら新しいものを再構築するのは「哲学」の役割なのである。

日本の「法のあり方」に制度疲労を起こしているのは、無論、犯罪被害者に対してだけではない。

 

せっかくなので、さらに踏み込んで進めよう。

フェミニズムは、「批判」そのものが目的の運動であり学問に過ぎず、「法学・法制度」の差別・暴力構造を暴露・批判することまではできても、「法のあり方」そのものを提出する役割も能力も持っていないのである。

「法のあり方」においては厄介な問題があるが、それがまさに「男性支配」の社会・法制度構造ということだ。

裁判官・弁護士など法曹全体でみれば、女性の比率が少しずつ上がっているのは確かだ。

しかし大学法学部、検察・警察・法務当局、何より国会議員全体の女性比率においてみるとどうか。(大学教員・官僚・政党総体の問題として捉えてもよい)

そして、法構造そのものの問題である。憲法(無論「日本国憲法」である)をベースとする日本の法体系に遺制として残存する「家父長制」構造にメスを入れられているか。

こうした「法と男性支配の構造的共犯関係」は、(「日本国憲法」の「基本的人権」原理を内在的起点とするフェミニズム単体では)突破できないのである。

だからこそ、自分は、上のような固有の視点で「応答」したい。

 

映画内容から逸れるようで逸れてない感想となってしまったが、自分の「知情意」を同時に解き放ってくれた作品となったのだ。

ミソジニー(女嫌い)か・「脱却」か?

自分は「ミソジニー(女嫌い)」だったのか?という自問というか疑問を持ったことがある。

確答の自信はないが、(ミソジニーだったとするなら)「脱却」したか、あるいは、「ミソジニーではない」と言えそうな出来事があった。

それは実際、あるいは当然というか「女」絡みの事象だったのだが(残念ながら詳しくは書けないので意味が分からないだろうが)、最初はショッキングな受け止めだったが、殆ど瞬間的に非常にフラットな眺め方を出来るようになったのが、自分自身でも不思議かつ印象的だったのだ。

 

一つ言えるのは、「男女間・男女関係の相互性」を再認したというシンプルな事実だ。

関係というのは、一方が一方に押し付けるのでなく、互いに作っていくし、その過程の連続である。

どちらかが齟齬をそれ以上受け入れられなくなった時点で、その関係は終了する。

 

ミソジニー」というか、正確には「人嫌い」の一面が、筆者にはあるということなのだろう。

どういうことか。

自分は、しばしばカップルや恋愛・結婚関係に用いる、「共同作業」という言葉が嫌いだ。それが出来ないということではなく、何かイデオロギッシュまたはウェットな幻想臭に鬱陶しさを感じてしまう。

 

もう一つは、「男女関係」といった場合に、女性側が例えば相手と付き合うと言った時に、値踏みという点で、「周囲からの相手(男性)の評価」「自分との釣り合い」などを重視することがある。

納得感もある一方で、「タルイな」という感覚は否めない。

「もともとあった人間関係→男女関係への収約」みたいなプロセスに対しては、個人的に面倒臭さを感じるということもある。

本質において、「(自分の活動を最優先したい)個人主義者」なのだ。

 

自分は、少し前まで婚活者のブログなどを好んで読んでいたのだが、最近は殆ど読まなくなった。

ある程度、「答え(見たい事例)が揃った」と感じるようになったのだ。

日本社会では、(子育て・子育て環境を意識した場合に)いわゆる「パワーカップル」による結婚だったとしても、「さほどの幸せは手に入らない」というのが結論である。

決めつけて申し訳ないのだが。

家族願望・子ども願望がある人にとっては必要なステップであったとしても、「幸福度を高める」為には相当のリソース・努力・窮屈さを備えなくてはならない。

そして、日本社会も総体としてそのことに気づいているように見える。

今後は、「結婚」か、「独身」ないし「それ以外の家族やパートナーシップのあり方」かいずれを取るかと問われたら、幸福の有り様を厳しく比較考量し、後者の比重がますます増えるとみるよりない。また、経済社会事情から、消極的にそれを選ば(され)ざるを得ない、選択肢がないというほうが多いかもしれないが。

 

少し逸れてしまったのだが、「結婚」「子育て」というものを考えた上での相手探しや交際・今後のプラン立てを考える場合、互いのプランを突合しつつ、共同計画や関係を構築していくことになる訳だが、その条件突合の作業がハイコスト(ないし無理ゲー)にならないか、ということなのだ。

 

「〇〇活」「●●カツ」と何でもかんでも知識や情報や下準備が必要でそれに大わらわにならないといけないこと自体がダルすぎる。

社会自体も、夫婦・家族関係自体も「大ざっぱに、いいかげんに」過ごしてもいいということが許容されない限りは、結婚も子育てもしようという気にならない。

だから、求めるとするなら、そうした大ざっぱさが許容されるような関係、その範疇内に収まるようにせざるを得ない。

 

自分は「女ぎらい」ではないと思っている。

ただ、「今の日本社会内で、結婚や子育てをしたいと考える女性たち」のニーズを満たそう、という意欲に欠ける(正確にはそれが去勢されている)というだけなのだ。

だから、選択肢としては、別の家族やパートナーシップを求める、(結婚や子育てを求めるとするなら)場所を変える、社会・環境を変えるなどになる。

ただ、そもそも論として、自分の幸福条件の中での優先順位において、「家族形成」は低位にあり、差し迫った必要性がない。

 

また、「女ぎらい」を擁護する訳ではないが、社会学的要因が大きいのではないかとも想像している。

「女ぎらい」になるのは、やはり社会的余裕の無さが反映されたものではなかろうか。

当然のことだが、「与えられるもの」がなければ相互性は成立しない。

「与えられるもの」のないままでは、豊かな経験は積み重なっていかない。

ないままで関係しようとすると、何らかの強制や暴力などを伴わねばならなくなるだろう。

 

アラサー女性の婚活者を描いたマンガで面白かったのは、財産・収入狙いではないかと女性不信に陥る婚活男性に対して、「いい歳になったら強みはそれしかないんだから、それくらい狙われとけよ!って話じゃん」と語っていたシーンだ。

これは正直、現代では男女双方の言い分が分かると言わざるを得ない。

しかし、ここで相互不信となり、婚活不成立・不調となってしまうのは、まさに社会の余裕の無さを反映しているのではないか。

「自分個人を守るのに精いっぱい」なところでは、結婚も婚活も成立しようがないのだ。

アイスランドの10万人女性スト‼︎

先回の記事を書いた直後のタイムリーなこのニュース。

アイスランドは、「最も男女格差の低い社会」と認定されてるのに、なおかつさらに一部の業務に見られる格差を是正するために見せるこの気概。

日本の女性陣も、ただSNSで愚痴ってばかりいずやりゃいいんだよな。

https://news.yahoo.co.jp/articles/b0a6ca7dd546a2722646d339a824a64ca1cc1ec9

 

 

 

「クズ夫dis」隆盛にみる「結婚逃避」の目詰り

kindleコミックで、「ヤバマン」というコミックにハマっている。

何でもアリの「ヤバいマンション」の意味なのだが、そこに出てくる(住人以外もだが)男たちが、ともかくクズ夫・クズ男ばかりというのが特徴だ。

コロナ禍で在宅ワークが浸透するも、まるで家事の手伝いを行わない夫たちのことが話題になったところを見ると、デフォルメ化されているというより、社会の実相をかなりの程度反映した上でのストーリー立てと見るべきだろう。

 

これ以外にも、(対象は夫だけのパターンに留まらないが)筆者がネットを見ていると、最近は(モラハラや不倫NTRやDV等の)「クズ夫dis」をテーマとする実録系コミックの広告表示回数が増加したように思う。

(その手の実録系を好むのは筆者の嗜好でもあるのだが)

「ダメ彼」「ダメ夫」というのは、単にその個人だけの問題に帰せられるべきでなく、社会の構造的問題として捉えなくてはならない、というのが個人的な考えだし、そうした考え方については、当ブログでも何度か触れた。

 

少なからぬ割合の「妻」が、様々な理由で「クズ夫」に悩まされているのは「気の毒」さ(と自らが圧倒的に優遇される「男性」という特権性)を感じる一方で、「結婚」は、「逃避」の手段としては目詰まりを起こしているのだ、と感じる。

「結婚」を「逃避」と捉える見方は、「女性」の側からは反発を受けるだろう。

が、「クズ夫dis」にはやはり「同情」だけの感想では不十分と思うからだ。

 

(disる前に)「事前にクズ夫を見抜けなかったあんたに責任はなかったわけ?」

「本当に、これからの生活の見通しを立てて、十分に相談や準備をした・できたの?」

「結婚や、出産育児の前に、社会環境を見渡すことが出来ていたの?」

という疑問が次々に湧いてくるからだ。

これは、女性に突き付ける「自己責任」論だと言われればその通りかもしれないが、「結婚」にせよ「出産・育児」にせよ、「生活」であり「厳しい現実」そのものである以上、「生半可な覚悟」で飛び込んでやしないか?という問いがなければ片びいきになる。

 

「男が何もやらない」「男がクズだ」というのには、「社会的な」正論も含まれる。

でも、だとするならば、そうした「集合的闘争」の手立てもある。

いうならば、現代版「女の平和」的手段において。

男・男社会に憤懣があるのに、なんで何もやらないで、「個人としての鬱憤」だけに内閉してるの?という疑問もある。

 

「生活に追われてそんなことをしたり考えたりする余裕がない」というなら、やはり同情の余地があまりなくなる。

飛び込んで皆成功できるほど、結婚も結婚生活も甘くないのは、現代の離婚率の高さが証明している。

あるいは、「そもそもがデキ婚で、考えたり選んだりする余裕もなかった」という比率も現在は特に大きかろう。

そうなると、更に厳しい言い方かもしれないが、はなから(「無理ゲー」ならぬ)「無理婚・無理家族」が約束されていたというべき比率も高いのではないか。

その確率は、ある程度まで計算できるだろう。

 

一つ、現実的にあり得るとするなら、「もし結婚が破綻をきたしたとしても、子どもは設けてシンママとして育てられる」という覚悟を持ったうえで臨むことだろう。

(そうしてシンママや、シンママに育てられる子どもが増えること自体が社会としていいことなのか、はまた大きな別問題であるが)

そうした「現実性」に随分乏しく、ただ「クズ夫dis」をひたすら垂れ流しているだけの「妻」が多すぎやしないか?というのが気になるところなのだ。

 

「女性」の社会的地位が日本社会において低く、差別されているのは確かで、取り組み続けるべき問題であるのは確かだ。

なおかつ、男性の特権的地位ゆえに、「クズ男」が量産されているのもまた確かだ。社会構造と、各個人たち双方をターゲットにして、「改善」プログラムを実施しなくてはならぬ。

 

「男が社会を変えろ」というフェミのメッセージに、概ね共感するし、同意もする。

けど、じゃあ女性は本当に考え、行動しているの?そして、しなくていいものなの?というところがとてもモヤモヤする部分なのだ。

あるいは、まだその「男のクズっぷり」が、十分に社会に知られておらず、ようやくその発信と啓発が始まったに過ぎない段階、と見るべきかもしれない。

 

アルテイシアが「ヘルジャパン」という表現で各種日本の「男と男社会」のヤバさを告発する本を書いているが、この手の本の比率の圧倒的低さが現状を物語ってもいる。

ようやく「『男と男社会』を表立って批判できる・してもいい社会」が、ほんの少しだけ実現され始めたことを示しているからだ。

 

告発は必要だが、やはり戦略や方法論に乏しいのもまた特徴だ。

「男が女を分断統治している」という面は無論あるだろうが、それだけでもない。

「同じ立場どうしで連帯して打破する」という、「組合的発想」が非常に乏しいように感じる。

そこはそれこそ、ある程度「男が社会を変える」というところで手を差し伸べるべきところか、と考えている。

「時間」「知恵」「労力」「カネ」のすべてにおいて、余裕がないのは「女性」のほうなのは明白だからだ。

「Re:上野千鶴子」に先立って…

kindle unlimitedのレコメンドから、岩波現代文庫に収録された上野千鶴子の初期の重要作が扱われていることを知った。

この機に、他のフェミニズム書と併せて本格的に再読意欲が高まっている。

 

学生時代も、上野千鶴子はちらちらと読んではいた。

ただ、学生時代は、以下のような条件の制約から、深堀りはせず、当時の時論的に分かりやすいフェミニズム言説を、表面的に・教養的に摂取するに留まっていたように思う。(#metooなどでフェミニズム言説が一般に膾炙するだいぶ手前の時代)

・「社会学」そのものへのスタンスやアプローチを掴みかねていたこと

 また、当時は他の学問分野を固めることを最優先していたこと

・「慰安婦論争」を通じての、「フェミニズム」への反発と警戒感

・「フェミニズム」の方法論や語り口が、「文学的批評」「精神分析」に偏っていることへの違和感

・また、上野千鶴子の理論的に依拠していた「マルクス主義」的社会学理論そのものの古臭さと無意味さ

etc.

 

前に書いた通り、現在はある程度「フェミニズム」「男性学」へのスタンスが固まっている。

自分自身の「社会学」に対するスタンスとアプローチも同様。

フェミニズム」を固め直そうとしているのは、主に「実践」的目的に依っているが、他の諸学・思想分野との関係性を包括的に整理したい、との動機もある。

 

少子高齢化」の行く末が、コロナ禍を契機に急速に可視化され始めた。

著者なりに、日本社会に対して、やりたいアクションというものがあった(し今も別にやらないことにしたわけでもない)が、その企画性もすぐに陳腐化されてしまうのかもしれない。

が、「social」な目的というより「private」な動機から考えていたことであり、別に考えたり準備する内容がすぐ無駄になるということは恐らくない。

そしてまた、2010年代は生活で忙しくて棚上げしてきた社会事象の再観察も、ある程度理論に則った上でやり直したい。

 

2010年代後半以降辺りから、恐らく日本のフェミニズムも、社会への問題意識浸透とともに厚みをかなり増したと捉えている。

フェミニズム理論・思想の世代移行」が日本社会にも訪れたことは興味深いし、歓迎すべきことだ。

 

学生時代にフェミニズムへの距離感を掴みかねた大きな理由として、「private」なこととして語り口を立ち上げるというその様式に馴染めなかったことが挙げられる。

(当時は「男性学」は影も形もまだなかったと記憶している)

当ブログでは、その一端を試しているが、いずれはそうした言葉も固められていくだろうと想像する。

 

フェミニズム男性学をやるのは、理論的目的ではなく、政治実践およびメディア発信的目的に依っている。

前も書いた通り、自分のスタンスは「対フェミニズム男性学中立」である。

いわば、「是々非々」的スタンスで眺めているが、当然批判的視点ばかりではなく、「親フェミ・男性学」的な観点もある。

というより、「保守中道」を、「親フェミ・男性学」ウィングへと伸ばしたい、というのを、政治的・メディア的な戦略的狙いに位置付けているわけだ。

 

もう一つ、フェミニズムの理論やアプローチそのものへの根源的批判というのも存在している。

しかし、「政治言説・社会言説としての流通性」を考えると、「文学批評」的方法論、中でも(現代となっては、特に「科学的視点では」胡散臭い)「精神分析」が幅を利かさざるを得なかった事情には同情すべき点もないとは言えない、と考えるようになった。

なおかつ、(上野千鶴子が出発時に依拠した)「マルクス主義フェミニズム」的視座そのものも全て「無効」になったかどうかも検証する必要がある。

 

硬い書き方をしたが、フェミニズムも「こういうものなのか」と分かると、かなり楽しく読めるようになるものだ。今は、「趣味教養」として楽しみつつ、マンガや配信コンテンツと併せて摂取していくことを目標にしている。

上野は、その中の「日本の歴史的有力軸の一つ」としての位置づけでいる。

 

 

「知るべきでも知りたくもないし、知る必要もない」事

最初に働いた職場で、そうした「仕事」があるな、と思った。

要は「汚れ仕事」だ。

上層部の恥部・秘部とかに関わる部分。

上層部に「小間使い」扱いされるようになるとか、会社の「奥」部分を覗けたりするのかもしれないが、「それは全然見たくもないし、関わりたくもないな」と感じたのだ。

 

卑怯かもしれないが、仕事をするなら、あくまで「会社のタテマエ(大義)」部分だけを見つめて働きたい。

別に、その職場に奉職したといって、上層部の子分になった訳でも、なりたい・なりたかったわけでも何でもないからだ。

その小さな職場では、「公(パブリック)」と「私(プライベート)」がもつれ合いがちだったので、自分の中で、しっかりと「情」と「理」を分けた上で働くようになっていた(それは、ある意味その職場で身についた「スキル」と言えるかもしれない)。

 

もっと、魅力的でカッコいい上層部なら、「公私ともに世話になりたい、見習いたい」と感じたかもしれないが、両方なかった。苦笑

ともすれば、彼らの「懐に入る」ことができれば「お気に入り」になり、「出世する」ことも視野に入るかもしれないが、そうした未来そのものにも彩りは特になかった。

 

「知るべきこと・知るべきでないこと」の「境界線」を明確にし、それを「自ら」守り得たことは、とても大きな財産となった。

別に、「汚れているからダメだ」と思っているわけではない。

そこまで自分がピュアで清廉潔白なわけでもなければ、「正義屋」というわけでもない。

 

「汚れ仕事」とか「利権仕事」があったとして、「そこに『今・ここ(彼らの許)で』塗れていいのか?」という厳しい見極め・選別の作業を行った。

もう少し歳もいって、先の展望に希望もなければ、判断も違っていたかもしれないが。

変に「世間ズレ」しないで済んだことは、決定的意味を持った。

「自分がそうされた以上、人にもそれを強いてしまう」、ハラスメントの連鎖をしなくて済んだし、それだけでなく、自ら「義」を持ったうえでの業務を推進するうえで、「腹蔵」すなわち後ろめたさを感じずに遂行できたからである。