セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「恋愛願望」の無さ?考

ミソジニー(女嫌い)か・「脱却」か?」に引き続いて、今回は「恋愛」願望(?)の有無に関して。

※大前提として、自分はいわゆる「異性愛」(ヘテロ)対象である。

 

数年ほど前から、「恋愛」したい、という欲求も願望もないな、ということに気づいた。というより、自己内部を整理した、というべきかもしれない。

結婚とか婚カツというもの(の不要性)を意識したのと同時に出した結論である。

 

 

たまたま、そうした相手にも巡り会わないことや環境とも関わるかもしれないが、それを求める強い意欲や刺激自体もないのだ。

これがたまたまの一次的なものなのか、今後も恒常的に続くものなのかも判断はついてない。

 

 

論理面・感情面両方を整理した結論によるもので、もともとから恋愛が嫌いとかしたくないというタイプだったわけではない。

(これが最近言われる「アロマンティック・アセクシュアル」という概念と絡むのか否かは、まだ詳しく調べてない。知見お持ちの方はご教示いただければ幸いです)

別に「もう恋愛なんてしない」と決めたわけではなく、「今は別に必要ないし、自分から求めに行くこともないな」と判断しているに過ぎない。

 

いくつか、その判断要因・根拠となっていることを列挙してみよう。

・忙しさと、他の自分の活動を優先していること。

 また、それらが今とても楽しく充実していること

・「恋愛の先」(結婚とかパートナーシップとか)を考える諸々の余裕がないし、いまのところその必要もないこと。

・社会的・年齢的プレッシャーの無さ

 (「結婚しろ」「子どもを持て」の類の雑音がない・排除してきたこと) 

・セックスと恋愛は、必ずしも結び付かないこと

・「最適相手」に巡り合うまでのコストと面倒さ

 また、それを探そうともし(て)ないこと。

etc.

 

また、かつて自分は「恋愛コミック」(少女・レディースを問わない)が好きだったが、そちらもめっきり読まなくなった。

それと結びついているか否か、またそうならなぜか、等の自己分析もまだ行っていないままだ。

 

上で挙げた理由を振り返ると、かなり自分の求める幸福条件に照らし合わせて、かなり論理的に出した結論にも見えるが、体当たりというか、直接の経験から自分を知るようになって出してきたことでもある。

 

ミソジニー(女嫌い)か・「脱却」か?でも書いたが、自分は「人嫌い」というか「個人主義者」の側面が強すぎる自覚がある。

そして「恋愛」しようとするなら、それだけの諸々の余裕がないといけないことも知っている。

自分に「相手に構える」だけの余裕があるか、「余り構わなくても平気」な相手を見つけない限りは、恋愛は不可能・始められない、というのが客観的な必要条件と見なせる。

 

もう一つ、「恋愛」はプロセスを楽しむものだが、そのプロセスそのものにさほどの楽しみを見出さない、またはその「結末」が楽しいものだろうか、というところが不確かになっている。

これも「実存」的なものなのか、今たまたま適切な相手に巡り合わないという環境条件によるものなのか分からない。

 

「大切なものを作りたくない」という状況判断も大きかったかもしれない。これこそ「余裕がない」状況を反映していたと言える。今は、根本的に条件が変化した訳というより、その「踊り場」にきたので足場とスタンスをやや見直している、といったところだろうか。

 

はっきりしているのは、今は今なりに人生を謳歌しているし、なおかつだからといって刹那主義に終始し将来を完全に投げているという訳でもない、ということだ。

「恋愛」も可能性を排除した訳ではないが、今は忙しいし、他にも楽しいことが山のようにあり、敢えてそれを求めに行く必要性がない。

 

大人になり、「独りであること」に慣れるだけでなく、楽しむことが普通になってしまった弊害も当然あるだろう。自己理解が行き届く分、他人との「生活リズムのすり合わせ」もより難しくなっていく。

 

まあ「恋愛」というのはどこかに転がっていてそれを求めに行くものではなく、「落ちる」ものだが、それがピンとこないほど遠くなってしまっているということに過ぎぬかもしれないのだが。