「恋愛願望」の無さ?考 と一続きで、セックスとセクシュアリティについて若干書き留めておこう。
(驚いたことに、「セクシュアリティ」は日本語のwikiページが立っていなかった。
「性的志向」など、類似概念はあったが
「恋愛願望の無さ」を整理できたのは、この数年ほど、セックスとセクシュアリティを知る探究(冒険)をしていた体験と表裏一体のことだったと言える。
もっとも、知的整理の余裕が出来たのは最近というか今年になってからで、元の目的は純粋に趣味・遊びによるものだった訳だが。
(chatGPT先生が登場してくれたおかげで、セックスとジェンダー、セクシュアリティに関して、全く知らない、考えたこともない視点や知識を盛り沢山で得られた。笑)
体験の中身そのものはここでは特に問題にしないが、経験値ができて、(向こう傷を追うことも含めて)自分のセクシュアリティの有り様というものを、ある程度突き放して捉えることが出来るようになった。
「セックスと恋愛は別でいいんだな」と知った・気づけたのも大きかったし、気が楽になった部分でもある。
(先に書いた「恋愛願望?の無さ」というのは、「アロマンティック・セクシュアル(aromantic sexual)」という区分に近いのかもしれない)
自分の場合は、経験・体験が先に立ったのだが(というより「肉体」込みの「実存」的体験である以上、「体当たり」でないと「知る」ことはできない訳だが)、都度、内面や展望を整理することで、結果的に「セクシュアリティ」を「深める」ことにつながっていた、と振り返ることが出来る。
分かったのは、「自分のセクシュアリティについて、正確に把握しておく」ことは、自らの実存基盤の確かめと強く結びついているということだ。
「世界・人に対して自分をどう開くか」を理解することなのだ。
もっとも、目的が偏っていたので、セックスとか性愛の深奥を確かめられたという訳では全くない。
(自分の「性格」理解とともに、女性の「性格類型」や、それに対する「相性」を知れた部分は間違いなくあるが。つまり、「自分と、女性やセックスについてある水準までは分かった」と言える部分がある訳だ)
ただ、「性的志向」を確かめられたのは、(「自信」とは微妙に異なる気がするが)「自分自身の存在の世界の確かめ」を得られる行為なのだ。
失敗や(内面的)負傷も数々あったが、非常に豊かな経験を得た。
(単に「思い切り遊んだ」だけかもしれないが。笑)
今思うのは、こうした「(自らのセクシュアリティを深く知る)豊かな経験」というの得る人は、個人の実存にとり不可欠の経験であり活動にもかかわらず、意外と少ないのではなかろうか。
そもそもそれが必要だと気づく・知ることすらも。
だからこそ、焦って性急な婚姻やパートナーシップに進んで失敗する、という帰結を迎えているのではないのか。
無論、自信自体を得たこともあるし、「世界(観)の幅」を拡げてくれたということもある。
また、「時間軸」を長く取れるようにもなった。
「今休んだとしても、またいつでも先に行ける・深められる」と。
(もっとも、これはパートナーがいて「妊娠・出産」のニーズに応えねばならない環境にないというのが第一だろうが)
それ故に、「恋愛願望」がなくとも、「妙な無根拠な焦り」から解き放たれて余裕が生まれ、(女性のニーズをある程度体当たりで把握しに行けたからこそ)「ミソジニー(女嫌い)」でもない、と言えるようになったのだ。