セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

セックスとセルフケア

※性的な表現が含まれます。読む方は予めご注意願います。

 

今回は、セックスと「セルフケア」との関係について書きたい。

自分の場合、この数年は、セックスは恋愛とも結婚とも関係のない形で享受するようになった。

開始当初は「性欲」本位だったが、次第に「セルフケア」としての比重が大きくなったと感じている。

「自分を大事にする」一環として、セックスライフとかセックス相手も大事にするようになった、ということだ。

そのための時間をつくって会う、という生活サイクル自体が、心身の安定をもたらしてくれるようになった。

 

「セルフケア」に重心が移ったというのも、前に書いた「セクシュアリティ」探究の自省の中で、いわば「自己発見」していったことだ。

自分にとっての(自然な)「セックスの重み(重要性や必要性)」というのは、関係とか生活を続けていく中で位置づけることが出来た。

 

自分はセックス自体は好きなほうだと思うが、それに「溺れている」わけでもない。

というより、セックスというのは、当然だが「相手」がいて成り立つ行為だ。

実際に「(対面で、差し向かいで)会う」という前提が必要になる。

時間の確保もそうだが、「気持ちを作る」のが意外と一作業だと認識したのだ。

 

先に「人ぎらい」の性質について言及したが、基本的には一人の時間を好む(引きこもり体質)ので、頻繁に人と会うような生活はかえって気疲れしてしまう。

一方で、会う、特に(身体までぶつけ合って)セックスするというのは、思い切り気持ちを「外向き」にできる余裕がなければいけない。

会うならば、相手にも楽しんでもらう必要もあるから、相当の精神的余裕が要る。

これが、「自然に」できるタイプではない、というのが自己発見だったのだ。

(早い話が「メンドクサイ(繊細な?)」体質の人間なのだ)

 

だから、この点で合わない(例えば頻繁に会いたがる)相手だと、こちらが気疲れしてしまうため「セルフケア」につながらない、ということがある。

前に「性欲の分析」で書いたが、「性欲」にも様々なグラデーションがあるので、同じ会うのでも、「主に何目的で会うのか?」を詰めていかないと、不用意なセックスになって事故り、かえって傷ついたりすることもある。これも「セルフケア」につながらない。

 

セックスは何かの手段(例えばむしゃくしゃしたときのストレス解消)にすべきものではないのだ。

セックス自体を目的に、真剣に欲求しなくてはならない。

そうしないと、心身を傷つけてしまうし、相手の存在をも無視した行為になってしまう。

 

若い時分の「性欲」だけでセックスしていたほうが何も考えなくて済んでよかった、だろうか。

いや、やはり(セクシュアリティに関する)自己理解を深めて、「幸せなセックス」を享受できるようになった、と捉えるべきだろう。