セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

「少子化対策」とは何だったのか(完了形)

「過去形」と書こうとしたが、いったん「完了形」に止めおくことにした。

 

政権の言い分より「少しだけ」感心したのは、下のインタビュー記事。

「対策しようがない」、止まらない過疎自治体のトップをしていただけのことはある、現実的な視点が含まれている。

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00371/121200061/

 

 

必要なのは、「日本(国と社会)は、(出生率上昇目的としては)『少子化対策』には、完全に失敗した。そもそも、『無理ゲー』過ぎた」と率直に認めることだと考えている。

「遅過ぎ、小さ過ぎ、迂遠過ぎたし、対策以前に、社会自体がそもそも遅れ過ぎていた。『出生率上昇』は遠過ぎる、というより(国家単位としては)『実現不可能な目標』だった」のである。

 

では、「少子化対策」は「政策として無意味」だったかと言えば、そうではない。

政策過程において、様々な社会課題が認識され、種々の対策も施された。

大なり小なり、「社会の成熟」に繋がったことは間違いないだろう。

 

今後も「出生率上昇」を政策目標として掲げることが、「無意味」とは言わないが、「ムダ」と感じる。

現在のままでは、実現可能性が0だからだ。

それを狙いたいとしても、今後はもっと別のアプローチ(例えば教育への投資、女性政策への注力、経済対策として若者世代の所得を上昇させるetc.)の比重を高めた方が、時間はかかるかもしれないが、結果的に実現できる可能性は高まるのではないか。

(その意味では、個々の政策はともかく、「方向性」自体としては、必ずしも岸田政権は誤ってないという見方も可能だ)

 

もう一つ必要なのは、「家族」観・「家族政策」の転換である。

もっとも、日本社会内部でも、かなり進んできた、とは言える。

重要なのは、「『少子化』って、『個人』にとっては本当に『課題』なの?」という問いと、その問いと「家族(とは何か、またその必要性)」との関係ではないか。

その部分の日本社会内部の議論が混沌としており、「合意困難」な状況にあると言えないか。

そうである限り、政府が上から旗を振っても、下がそもそも「そんなには望んでない、そもそも必要かどうかはっきり分からない」状況で、「政策効果」が得られる訳がない。

 

著者は、「戦後新民法により、『家父長制的家族』は否定された」というのは、一種の(戦後民主主義の要請した)「神話」だったと考えている。

日本社会の「ホンネ」と「タテマエ」がどうだったのかと、どのように「骨抜き」にされたのか、その実態、または社会構造を改めて整理すべきだろう(もっとも、その整理自体は、社会学研究の中でとっくに行われているものであるが)

 

とは言え、ここにも「無理ゲー」構造が孕んでいるのだが、自民党政権の弊害として、「保守勢力の主観」が強く出過ぎてしまったことは、そうした議論や合意を大幅に遅らせる結果になったと言える。

(結論を言うなら、そもそも「保守的な自民党政権」が「少子化対策」を言うこと自体が無理ゲーだったのである。笑 自民にとりフリ、またはポーズとして必要だった、とは言えるだろう。いや、自民党自体として、中和ないし中道路線に厚みを与える効果はややあったか)