フェミ文献を読み進めるに際しての一つの問題は、今なお残存するフロイト-ラカンの影響力である。
フェミニズムやその文献に当たるに際して、フロイト-ラカンの存在をどう捉えるべきか。
フロイトやラカンが、戦後思想や文芸において、多大な影響を持っていたことは知っている。
今なお、かつてよりは影響力は後退したようだが、フェミニズム以外に、文芸批評、精神分析etc.の領域でも、相互に重なり合いながらも手法や叙述は生き永らえているようだ。
(筆者の知る若手研究者でもラカン的精神分析の手法を受け継いだ研究を行う人がいる)
筆者自身のフロイト-ラカン自体へのスタンスは昔から決まっている。
「スルー」だ。
読みもしなければ、そこから何かを摂取もしない。
理由もはっきりしていて、非科学的であること、その文体や世界観自体が気持ち悪くて生理的に受け付けないことだ。
とはいえ、参照すべき重要なフェミニズム文献や研究者の多く(というか大半?)が、フロイト-ラカンの影響下にある・あったという事実も考慮する必要がある。
特に、文芸批評や精神分析において、それらの手法やフレームワークを援用しようとする場合に、どうしても頭をにょっきり出してくるようだ。
フロイト-ラカン的記述に接して、率直に感じるのは「鬱陶しい、面倒くさい」だ。
ただ恐らく、それらが精神分析・関係分析等で便利な説明を与えてくれる「理論=物語」として作用していることは想像がつく。
実際のところ、筆者自身は、こうした「フェミニズム文献のフロイト-ラカン的記述の影響力」状況に対して、まとまった戦略的スタンスを整理出来てはいない。
そもそも、フェミニズムには社会学的関心が強い一方で、(フロイト-ラカン的記述が色濃く出る)文芸批評や精神分析には個人的に殆ど興味がない、ということもあるのだが。
とはいえ、研究者やその文献の中で、そうして社会学か文芸批評か、と分かりやすく色分けされて叙述がなされている、ということもまた少ない筈だ(上野千鶴子などを思い浮かべてもらえばよい)。
また、そのような読み方をしたら面白みにも欠ける。
一体、フェミから「フロイト-ラカン的記述をどう脱臭(脱構築)するか?」というのは大問題なのだ。
一つ考えられるのは、問題-解決の構図から、(フロイト-ラカン的)理論構制(=物語/世界観)を取っ払い、純粋に社会的・心理的問題として抽出し直す、というやり方だ。
無理に理論的説明を要請するから、フロイト-ラカンがしゃしゃり出てくるわけで、そうした理論要請自体をやめればいいのだ。
それで、フロイト-ラカンに拠らずに、同様の問題に取り組んでいる社会領域から、問題の捉え方と解決策を借りてきて、叙述を組み立てし直す。
筆者としても、「社会問題としては」、女性に加えられている差別・暴力問題に興味関心を持っている。
ただそこに対して、おかしな理論的枠組みでの捉え方やアプローチを紛れさせたくない。
「社会心理学的問題として」捉え返し、叙述し直す必要があるとして、筆者はそんなことまでやったり考えるのか?という根本的な疑問も浮かんでくる。
(筆者はうたってある通り、「対フェミニズム中立」であり、「味方」しているつもりはないからだ)
そこのスタンスは定まってない。これからどう向かい合っていくだろうか。