セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

無保険転落とセルフネグレクト

最近、このような身近な事例を見聞した。

数年前まで生活習慣病か何かで通院していたが、失業で無保険となり、通院を辞めてしまった中年男性(親と同居)。

結果、ごく最近、「ものが食べられず、歩くこともできない」という状況になり、ようやく救急車を呼んで病院に罹ると、がんの末期で余命1か月前後とのこと。

久しぶりに医療機関にかかったら、既に手の施しようのない状況だったわけだ。

 

しかし、このような状況の人は、(しかもコロナ禍以降はそうした社会環境を一挙に増長させたと想定されるが)恐らく数えきれないほどいると考えられる。

これは筆者自身の経験としてもあるが、仕事をしなくなると、保険を国民保険に切り替えないといけなくなるが、月額保険料がとてつもなく高いので、「当分まあ加入しなくてもいいや」となる。

医者にかからない、という主体的判断だけで済めばいいのだが、保険証がない状況というのは、「医療機関へのパス」そのものがなくなるような感じがするし、そうなると、医療費がどれくらいかかるのかも想像できなくなり、一挙に「医療機関や、医療に係るハードル」が高まってしまうのだ。

 

また、その場合、例えば「失業」状態がいつまで続くのか分からない、という前途不明・未定の状況ともなる。

ずっと続く=もう見つからないのか、それともすぐに見つかるのかは(予め就転職先が決まったうえで前職を辞めたのでない限り)、必ずしも容易に判断が付かない。

そうなると、「その間国民保険に加入すべきか、その上で医療機関にかかるべきか」などの判断も困難になる、ということが生じるわけだ。

 

結果として、「職が見つからない状況がずっと続く」状況から、「無保険」が継続し、そのまま「医療機関にもかからない」状況へと転落する。

セルフネグレクト(自己放任)」という言葉は、近年比較的よく耳にするようになったが、個人的には好まない。

好き好んでそのような状況を選択している人は絶無で、自らを取り巻く環境から徐々に余儀なくされて、その状態に陥っていくという事例しかないと考えるからだ。

 

(困難な状況にある人は)「声を挙げよ、声を挙げよ」ということはよく言われるし、正論であるとも思う。

が、「声を挙げるべきなのか、自力で何とか出来る余地があるのか?」は、意外と判断が難しい筈である。

特に、「自己責任」でめった打ちにされる社会においては、「自助努力をどこまでしたのか?まだできるのではないか?」と陰に陽に責められ、(もしそのスキルや判断があったとしても)「声を挙げる」選択は、次第に後景へと退いていく。

 

この事例に関しても、「早期に親と別居し、生活保護を受けた上で、医療にかかれば何とかなったのでは?」との声も聞かれた。

それも後知恵としては正論だろうが、そうしたアクションは、それはそれで大きなハードルがいくつもある。

「自力更生」から、「社会からの全面扶助」路線にそう簡単に舵切りできるものだろうか。

 

セルフネグレクト」と一口に断ずるのは簡単である。

が、本当に「セルフケア」への意思がない・なかったか、と言えばそうではないだろう。

「生保」には、恐らく人により世代や環境により、精神的にも、物理環境面でも大きなハードルがあり得る。

「生保」となると、(「世間」が狭いほど)「周囲の目」が気になるのも肯けない事情ではない。

 

「生保」も、使うのが当然のような世の中へと、社会意識を変えねばならない。

ここは、日本人お得意の「言い換え」「呼び換え」というカードを切るべきではないのか。笑